松平家の人々
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■ 松平家 

■ 松平容保(まつだいらかたもり)

■ 松平定信(さだのぶ)

■ 松平慶永(よしなが)

■ 松平信綱(のぶつな)

■ 松平定敬(まつだいらさだあき): 1846−1908年。桑名藩主。京都所司代に任じられ、兄の容保と共に京都の治安維持に努めた。鳥羽・伏見の戦いに敗れ、徳川慶喜に再挙を訴えたが叶わず、榎本武揚と函館に行った。家臣から新政府軍の桑名侵攻を知らされて、帰順した。【出典

■ 松平定昭(まつだいらさだあき): 松山藩の十四代藩主。京の警備や長州征伐に加わった。鳥羽・伏見の戦いで徳川慶喜に従ったために朝敵とみなされて、謹慎を命じられた。【出典

■ 松平定政: 家康の異父弟の松平定勝の六男。1633年に徳川家光に仕え、1649年に三河国刈谷藩2万石。

■ 松平忠輝(まつだいらただてる)

・ 徳川家康に六男。生後すぐに下野国長沼城主の皆川広照に養育された。一説には、家康が忠輝の容貌を嫌って「捨てよ」と言ったという。1599年に忠輝は、武蔵国深谷1万石の長沢松平家の名跡を継いだ。その後、下総国佐倉4万石、信濃国松代14万石、伊達政宗の娘の五郎八(いろは)姫を正室とした。その後越後国福島(高田)60万石。大坂の陣後に家康から勘当され、上野国藤岡で蟄居。

・ 松平忠輝(まつだいらただてる): 1592−1683年。徳川家康の六男。母の身分の低さと容貌の醜さから家康に嫌われたという。越後国の高田藩主だったが、大坂の陣での遅参などを理由に改易となった。信濃国諏訪にて92歳で死亡した。【出典

■ 松平忠直(まつだいらただなお): 徳川家康の次男の結城秀康の嫡男で、下総国結城で生まれた。関ヶ原の合戦後には、家康は秀康に越前国の北庄68万石を与えた。秀康の死後、忠直は13歳で家督を継ぎ、その後徳川秀忠の娘を正室とした。不行跡により1623年に隠居を命じられ、賄い料5千石で豊後国萩原に流された。

・ 松平忠直(まつだいらただなお): 1595−1650年。結城秀康の長男。大坂夏の陣(大坂の陣)では真田幸村の首をとり、大坂城にも先陣をきったが、功績を認められずに幕府に不満を持った。正室の殺害未遂などの乱行で、隠居を命じられて、豊後国で死去した。【出典

・ 福井藩主。福井(北庄)68万石を領した松平忠直は、文禄4年(1595年)に、結城秀康の子として生まれた。秀康は、慶長12年(1607年)に34歳の若さで病死した。忠直は13歳で藩主になった。ところが、慶長18年(1613年)に、藩内では家臣達が二派に分かれて対立した。斬り合いも各所でおこり、350人の死者がでたというが、不詳。忠直は気晴らしのために酒色に溺れたうえ、無実の家臣や農民を手討ちにした。さらに、亡くなった家臣の妻に思いを寄せたが、妻は拒んで剃髪した。忠直は激怒して、300人の手勢を出して、その一族を殺した。幕府は、「忠直、不行跡」として元和9年(1623年)に、豊後国萩原(大分市)へ配流した。【出典

■ 松平忠長(まつだいらただなが): 1606−1634年。二代将軍の徳川秀忠の三男。徳川家光の弟。聡明で期待され、兄と将軍の後継争いが生じた。55万石を領したが、不行跡で蟄居、自害を命じられた。【出典

■ 松平忠之(まつだいらただゆき): 古河藩主。松平忠之は貞享3年(1686年)に13歳の時に、古河藩(古河市)8万石の藩主になった。その翌年、幕命によって熊沢蕃山を古河城に幽閉した。しかし、罪人を預かるというのではなく、蕃山から学んで傾倒して、師として敬った。なぜならば、農業政策に役立つ実学をみにつけていたからである。しかし、幕府は「蕃山を監視せよ」と命じた。その後、蕃山は元禄4年(1691年)に73歳で死去したが、2年後に幕府の使者が古河藩の江戸藩邸を訪れ、忠之を詰問した。これを機に、忠之はその夜にただならぬ振る舞いをした。【出典

■ 松平忠吉(まつだいらただよし): 1580−1607年。徳川家康の四男。関ヶ原の合戦では初陣を飾って、福島正則と先陣を競ったという。その後、尾張国の清洲城主になって、52万石を領したが、わずか28歳で死亡した。【出典

■ 松平信康(まつだいらのぶやす): 1559−1579年。徳川家康の長男。織田家徳川家が同盟を結んだときに、織田信長の娘の徳姫を正室にした。17歳の時の長篠合戦で初陣を飾ったが、粗野な行動で徳川家の内部に敵を作った。徳姫が信長に「家康の妻が武田勝頼に通じて、信康もそれに加担した」という密告を行い、信長は家康に信康の自害を命じた。【出典

■ 松平治郷(まつだいらはるさと): 1751−1818年。松江藩松平家の七代藩主。木綿、朝鮮人参、こうぞなどを藩の特産品として促進。また、松江塗りを奨励して、出雲焼きを復興した。さらに、倹約と増税で藩の財政改革に成功して、治水工事や砂防林の造成も行った。茶人としても有名で、不昧(ふまい)の号を持って、不昧流を開いた。茶道具の収集に資金を投じたため、立ち直りかけた藩財政が傾いた。【出典

■ 松平光長(まつだいらみつなが): 1616−1707年。松平忠直の長男。越後国高田藩主。高田藩の繁栄の礎を築いた。後継者問題で越後騒動が発生し、改易されたが、のちに赦免されて93歳で死去した。【出典


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