下野国
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# 旧東山道。

# 現在の栃木県

# 太閤検地での石高: 37万石。【戦国大名県別国盗り物語 八幡和郎 PHP文庫】

# 延喜式による国力順位(納税額による)【本当は面白い「日本中世史」 八幡和郎】。下野国は16位。

# 古代の毛野国(つけのくに)が「上毛野国」「下毛野国」に分かれた。

# 毛野国は禾(け・稲)がとれる国を意味する。毛は草木のことで、作物がよくなる野。

# 「毛野」とは、「北関東の火山群の火山性扇状地・火山灰台地を、「△型火山(ケ)が作った野」と総称した古地名。【地名でわかる水害大国日本 楠原佑介 祥伝社新書】

※ あくまでも現代の所感では栃木も群馬も稲作よりも畑作のイメージが強いが、昔は違ったのか?

# 下野国: 上野国の通称が上州なので、下野国は下州かと思ったら「野州(やしゅう)」

■ 寒川(さむかわ)郡: 栃木県。下野国にみられた郡名で、中世は寒河郡とも書いた。平安末期に思川東岸の地域は寒河御厨となり、中世以降は思川西岸の地域が寒川郡となった。【出典

■ 塩谷(しおや)郡: 下野国の郡名。奈良・平安期の表記は塩屋で、中世以降は塩谷が一般的となったと思われる。また、近世までは「しおのや」とも読んだ。出典

■ 都賀(つが)郡: 下野国にみられた郡名。地名は常緑針葉樹の栂(つが)に由来すると思われる。当郡には古代から中世に下野国府があり、国府郡とも称された。【出典

■ 那須(なす)郡: 栃木県(旧下野国)の郡名。

■ 結城(ゆうき)郡: 栃木県。古代より下野国にみられた郡名。「和名抄」に「結城〈由不岐〉」と見える。郡名の由来について「古語拾遺」は穀木(かじのき)がよく生育する地であったことによるとする。穀木とは「和名抄」に楮と同じと見え、この木の皮を剥ぎ、繊維を蒸して水に浸し、細かく裂いて糸としたものを木綿(ゆう)といったから、ゆふの木が自生するに適した地という意味でユフキといったのであろう。平安末期、寿永2年に志田義広の乱が起こると、小山政光の第3子朝光は源頼朝に従って戦い、乱平定後その功により結城郡を与えられ、結城朝光と名乗った。
・ 下野国寒河郡の寒河氏、寒河郡網戸郷の網戸氏、大内荘の大内氏はいずれも結城氏の一族である。【出典


■ 那須国(なすのくに): 栃木県

# 大化改新以前の国名。「先代旧事本紀」の「国造本紀」に「那須国造 纒向日代朝御代、建沼河命孫大臣命定賜国造」と見え、纒向日代朝は景行朝を指し、4世紀後半頃に那須国は成立したことになる。那須国造の初代は、建沼河命の孫大臣命であったという。一方、那須国造碑によれば、那須国造で、追大壱の位階をもち、評督(郡司)を賜わった那須直韋提は「広氏尊胤」とあり(県史古代)、「広氏」とは広来津公、すなわち豊城入彦命の3世の孫赤麻里であったとみなしてよい(県史通史編2)。「新撰姓氏録」の「河内皇別」によれば、広来津公は上毛野朝臣を同祖とし、豊城入彦命の後裔という(群書25)。豊城入彦命の子孫は上毛野君・下毛野君として上野国・下野国に有力な地盤を形成した(県史通史編2)。「国造本紀」に、仁徳朝に下毛野国造となったと記されている奈良別も豊城命の4世の孫であり、那須国造と上毛野国造・下毛野国造は同族ということになる。湯津上村・小川町が那須国の中心であったと思われ、この地域には多くの大型な、副葬品の優れた古墳があり、特に前方後円墳が6基存在する。これらの古墳は、5世紀には成立・発展を見るに至ったものと考えられる(同前)。なお、那須国と毛野国およびこの後身の下毛野国とは、鬼怒(きぬ)川が境界線的な役割を果たしたとする説がある(県史通史編1)。那須国造碑によれば、那須国造那須直韋提は持統天皇3年に評督(郡司)に任命されたことが知られ、この年に那須国は下野国に編入され那須郡となった。【出典


# 続日本紀文武天皇2年(698年): 7月17日: 下野・備前二国が赤烏を、伊予国が白なまり(錫と鉛の合金)を献じた。

# 続日本紀文武天皇3年(699年): 3月4日: 下野国が雌黄(黄色の顔料)を献じた。

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