「や」行の人々 | |
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■ 宿屋飯盛(やどやのめしもり): 1753−1830年。本名は石川雅望といい、狂歌師、国学者。家業が宿屋だったことに由来する号。和学、漢学を学び、狂歌を大田南畝に学んだ。狂歌四天王のひとりに数えられた。【出典】
■ 柳田国男(やなぎだくにお): 1875−1962年。農政学者として、雑誌の「郷土研究」で資料収集を行い、日本民俗学を確立した。【出典】
■ 山鹿素行(やまがそこう): 1622−1685年。林羅山の門下。兵学や神道にも通じた。朱子学を批判して、孔子の教え(聖学)に戻ることを主張した。【出典】
■ 山県大弐(やまがただいに): 1725−1767年。尊王兵学者。江戸で、私塾を開いて尊王論を説いて、幕政を批判したため、謀反の疑いで逮捕されて死罪になった。(明和事件)【出典】
■ 山県昌景(やまがたまさかげ): 1529?ー1575年。武田家の家臣。兄の飯富虎昌の謀反の謀議を密告して、虎昌は自害した。数々の軍功をあげて、三方原の戦いでは徳川家康を追い詰めた。信玄の死後には武田勝頼に仕えたが、馬場信春とともに疎まれて、長篠の戦いで討ち死にした。【出典】
■ 山崎闇斎(やまざきあんさい): 1618−1682年。南学派の朱子学者。神道家で思想家。谷時中に師事し、会津藩主の保科正之に仕えた。吉川惟足に神道を学んで、天照大神を崇拝する垂加神道を開き、崎門学派を形成した。【出典】
■ 山崎宗鑑(やまざきそうかん): ?ー1539?年。連歌師で、俳諧連歌の祖。足利義尚に仕えたとされるが、経歴は不明。出家後は、京の山崎に隠遁し、俳諧連歌集の犬筑波集(いぬつくばしゅう)を編纂した。【出典】
■ 山背大兄王(やましろのおおえのおう): ?ー643年。聖徳太子の子。推古天皇の後に、有力な皇位継承者と目されていたが、蘇我蝦夷に妨げられた。その後、蘇我入鹿に斑鳩宮を襲われて、争いをきらって自害した。【出典】
■ 山田耕筰(やまだこうさく): 1886−1965年。ドイツへの留学後、日本交響楽協会を育成。交響曲、唱歌、校歌、軍歌など、多くの作品を残し、指揮者としても活躍した。【出典】
■ 山名氏清(やまなうじきよ): 1344−1391年。中国地方や近畿地方に一族合わせて十一カ国を領した守護大名。領国が日本の六十六国の六分の一にあたるので、六分の一殿と称された。家中の分裂問題で足利義満に挑発され、明徳の乱を起こして敗死した。【出典】
■ 山中鹿助(やまなかしかのすけ): 1545?−1578年。本名は幸盛(ゆきもり)。尼子義久が毛利元就に降伏すると、出雲国を去って尼子勝久を擁立して出雲国の奪還を目指したが、敗北して死罪になった。【出典】
■ 山名祐豊(やまなすけとよ): 1511ー1580年。但馬国の守護を務めた。羽柴秀吉の但馬侵攻を受けて、後には織田信長に従った。しかし、家臣が毛利氏と和睦したことで信長の怒りを買って、秀吉に有子山城を包囲されて、死亡した。【出典】
■ 山片蟠桃(やまがたばんとう): 1748−1821年。商人で、町人学者。大坂の両替商の升屋に番頭として仕え、仙台藩の財政再建を遂げて評価された。懐徳堂で朱子学を。先事館で天文学を学んだ。【出典】
■ 山名豊国(やまなとよくに): 1548−1626年。兄の山名豊数が家臣に奪われた鳥取城を奪い返して、因幡国の守護になった。毛利氏に属したあと、羽柴秀吉に攻められて鳥取城から一人で出て降伏。その後は秀吉の御伽衆(側近)になった。秀吉の没後は徳川家康に仕えた。【出典】
■ 山南敬助(やまなみけいすけ): 1833−1865年。新撰組の総長。小野派一刀流免許皆伝ののちに、北辰一刀流を学び、天心理心流へ。近藤勇らとともに、新撰組を結成し、芹沢鴨の粛正の後に、総長になった。しかし、次第に近藤勇や土方歳三と対立し、1865年に脱走。沖田総司に連れ戻されて切腹した。【出典】
■ 山上憶良(やまのうえのおくら): 660−733?年。歌人。「貧窮問答歌」や、子どもへの愛情を詠った歌が代表的。「万葉集」に長歌、短歌、旋頭歌などがある。【出典】
■ 山部赤人(やまべのあかひと): 歌人。自然の美を詠い、柿本人麻呂と共に歌聖(かせい)と讃えられた。三十六歌仙のひとり。【出典】
■ 山本勘助(やまもとかんすけ): ?ー1561年。武田信玄の家臣で軍師という。第四次の川中島の合戦で、上杉謙信軍を挟み撃ちにしたが、敗退して討ち死にした。【出典】
■ 山本権兵衛(やまもとごんべい): 1852−1933年。薩摩藩士の子。薩英戦争や戊辰戦争に従軍し、海軍に入った。欧米の視察後、海軍の地位向上に努め実現した。その後、海軍大臣や総理大臣を務めた。【出典】
■ 山脇東洋(やまわきとうよう): 1705ー1762年。丹波国亀山の出。後藤艮山(こんざん)から医学を学んだ。京都所司代に許可を得て死刑囚を解剖して「蔵志(ぞうし)」を書いた。漢方医による五臓六腑説の誤りに気づいて、日本医学の近代化に貢献した。【出典】
■ 結城氏朝(ゆうきうじとも): 1402−1441年。武将。鎌倉公方の足利持氏が幕府軍に敗れて、関東地方が将軍の支配下に入ることに不満を抱き、1440年に持氏の遺児の春王丸・安王丸を結城城に迎え、関東管領の上杉憲実および幕府軍と戦ったが、敗れて自害した。また、春王丸と安王丸も殺された。これを結城合戦という。【出典】
■ 結城秀康(ゆうきひでやす): 1574−1607年。徳川家康の次男で、母は側室の於万の方。当時は忌み嫌われた双子だったため、家康に疎まれたという。小牧・長久手の合戦後に、豊臣秀吉の養子になって、のちに結城家を継いだ。【出典】
■ 結城政勝(ゆうきまさかつ): ?ー1559年。結城政朝の子。宇都宮氏や小田氏を破って、下総国から下野国や常陸国まで勢力を拡大した。【出典】
■ 結城政朝(ゆうきまさとも): 1479−1547?年。下総国の武将。結城城主。結城政勝、小山高朝の父。佐竹氏や宇都宮氏などを破って領土を拡大した。【出典】
■ 遊佐慶親(ゆさよしちか): 越中国の守護の畠山家の守護代として越中国に転じ、蓮沼城に拠った。しかし、一向一揆に抗しきれずに越後国に逃れた。【出典】
■ 横井小楠(よこいしょうなん): 1809−1869年。福井藩主の松平慶永の政治顧問として、幕政改革・公武合体を進めた。坂本龍馬とも交流した。明治維新後には新政府の参与になったが、1869年に京都で暗殺された。【出典】
・ 横井小楠: 丸に三つ鱗紋。熊本藩主出身の儒学者。桓武平氏の出。【武将と家紋
インデックス編集部】
■ 与謝蕪村(よさぶそん): 1716−1783年。俳人、画家。摂津国出身。絵画的描写の天明調俳諧、中興俳諧の中心人物。俳画の創始者ともされ、絵画については池大雅と並ぶ文人画の大成者とされる。【出典】
■ 吉田兼倶(よしだかねとも): 本姓は卜部氏。神道家で、唯一神道(吉田神道)の創始者。室町幕府と朝廷に力を借り、しだいに勢力を拡大した。【出典】
■ 吉田有由(よしだみつよし): 1598−1672年。数学家、「塵劫記(じんごうき)」を著し、かけ算、割り算といった基礎から級数、幾何まで絵を用いた例題などで説明した。【出典】
■ 淀屋辰五郎(よどやたつごろう): ?ー1717年。辰五郎は通称で、本名は廣當(ひろまさ)。淀屋は大坂の豪商(金融業)だったが、贅沢を理由に全財産を没収され、大坂から追放された。淀屋最後の当主。【出典】
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