上杉家の人々
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■ 上杉景勝(うえすぎかげかつ)

■ 上杉謙信(うえすぎけんしん)

■ 上杉鷹山(うえすぎようざん)

■ 上杉顕定(うえすぎあきさだ): 1454−1510年。守護大名。40年以上にわたって関東管領を務めた。その間、古河公方の足利成氏らと戦った。越後国に攻め入って長尾為景と戦ったが敗死した。【出典

■ 上杉景虎(うえすぎかげとら): 1552−1579年。北条氏康の七男。甲相同盟のために、武田家の人質になって、その後は越相同盟によって上杉謙信の養子になった。謙信の死後、上杉景勝と家督争い(御館の乱)がおきて敗れ、北条氏政を頼って小田原に敗走する途中に、家臣の謀反で自害した。【出典

■ 上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう): ?ー1417年。上総国武蔵国守護大名関東管領に就任して鎌倉公方足利持氏を補佐したが、持氏と対立していった。1416年に、反乱をおこしたが敗れて自害した。これを上杉禅秀の乱という。【出典

■ 上杉憲実(うえすぎのりざね): 1410−1466年。守護大名関東管領を務めた。鎌倉公方足利持氏を補佐した。持氏と義教の調停に尽力したが、持氏と不仲に成って、持氏を攻めた。これを永享の乱という。また足利学校や金沢文庫を再建した。【出典

■ 上杉憲房(うえすぎのりふさ): 1467−1525年。上杉顕定の養子。上杉顕実と争って、山内上杉家の当主になると、関東管領となった。しかし、家臣の離反や対抗勢力との争いによって、その権勢は不安定だった。【出典

■ 上杉憲政(うえすぎのりまさ): 1523ー1579年。上杉憲房の子で、山内上杉家を継いで、関東管領になった。武田氏北条氏と争って、優位な兵力を持ちながらも北条氏に大敗した。越後国に逃れ、上杉謙信を養子にして、その後、関東管領を謙信に譲った。【出典


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