上杉景勝
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■ 上杉景勝(うえすぎかげかつ)【出典】: 「上杉」の名字の由来
・ 1555−1623年。享年69歳(病死)。
・ 出身地: 越後国。
・ 肩書き: 武将。
・ 家紋: 上杉笹紋。
・ 越後国の坂戸城主の長尾政景の次男。母は上杉謙信の姉の仙桃院(せんとういん)であるため、景勝は謙信の甥である。景勝の父の長尾政景の死後、謙信は景勝を養子にした。1578年の謙信の死後、同じ養子の上杉景虎と激しい家督争いがおこり、御館の乱(おたてのらん)が生じた。景虎の後ろ盾には実家の北条家と同盟の武田家があって、当初は景虎に不利だったが、春日山城を占拠して乱を平定した。景勝は家督を継いだのちの1582年に、織田信長の家臣の柴田勝家に越中国に攻め込まれて苦境に立ったが、同年の本能寺の変によって信長が死去したため危機を脱した。その後、賤ヶ岳の戦いや小牧・長久手の合戦では羽柴秀吉について、1586年には上洛して秀吉の臣下になった。1592年の文禄の役の後には佐渡の金山・銀山の支配を任されて、五大老の一人になり、1598年には越後国から会津120万石に転じた。関ヶ原の合戦では西軍に属して、伊達政宗や最上義光らと戦ったが、合戦ののちには出羽国米沢30万石に転封となった。
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