米沢藩 | |
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■ 米沢藩(山形県米沢市)
# 「米沢」の地名。
# 上杉家30万石。後に15万石。
・ 上杉弾正大弼
# 上杉景勝: 米沢藩の初代藩主。越後の上杉謙信の姉の子で、越後国の坂戸城主の長尾政景の次男。豊臣政権のもとでは五大老に列した。会津120万石の後、関ヶ原の合戦で西軍に組し、江戸時代には出羽国の米沢藩30万石。
# 上杉鷹山
・
出羽国米沢藩の第9代藩主。官位は従四位下侍従。官名は弾正大弼、後に越後守。諱は治憲(はるのり)で号は「鷹山」。日向高鍋藩主の秋月種美の二男として高鍋藩の江戸屋敷で生まれる。母方の祖母が米沢藩の出。
・ 上杉鷹山は日向国の高鍋藩から米沢に養子。母親は正室で筑後国の秋月藩の黒田家から嫁した。
# 上杉鷹山の「伝国の辞」
・ 上杉家九代の上杉鷹山は35歳で隠居し、養嗣子の治広に家督を譲ったが、そのとき与えたのが「伝国の辞」で、いわゆる君主の心得である。
一 国家は先祖から子孫へ伝え候。国家にして我私すべき物にはこれ無く候。
一 人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候。
一 国家人民のために立たる君にして君のために立たる国家人民にはこれ無く候。
つまり、国は先祖から子孫へと受け継ぐもので、君主の私有物では無い。人民は国に属するものであり、君主の私有物では無い。君主は国や人民あってのもので、君主のために国や人民があるわけではない。
・ 上杉家会津120万石時代の家臣団は6000名にもおよぶ。第八代の上杉重定は藩を返上しようとして幕府に断られた。
# 上杉治憲の時世 (第九代米沢藩主)
・ 竹俣当綱: 農政の専門家で第九代米沢藩主の上杉鷹山の改革の中心人物。
・ 藁科松柏: 医師。細井平洲の弟子で第九代米沢藩主の上杉鷹山の改革派。
・ 莅戸(のぞき)善政: 第九代米沢藩主の上杉鷹山の改革派。
・ 須田満主: 米沢藩の江戸家老で、第九代米沢藩主上杉鷹山の反改革派。後に切腹苗字断絶。
・ 芋川延親: 米沢藩の侍頭で、第九代米沢藩主上杉鷹山の反改革派。後に切腹苗字断絶。
・ 色部照長: 上杉藩の江戸家老で、第九代米沢藩主上杉鷹山の反改革派。後に半知取り上げで隠居閉門。
・ 千坂高敦: 米沢藩の侍頭で、第九代米沢藩主上杉鷹山の反改革派。後に半知取り上げで隠居閉門。
# 上杉鷹山の時代、米沢藩の石高は15万石だが、そのうちの13万3千石が家臣の給与だった。
# 米沢藩
・ 天明の大飢饉は天明2年から5年間続いた。
・ 天明2年は、長雨が春から始まり、夏になってもやまずに冷夏となった。
・ 天明3年も同じような天候で、日本列島は北から南まで冷害と洪水が続いた。
・ 作物は水浸しで食用にならず、日本国中で備蓄があったのは、紀州、水戸、熊本、米沢の四藩だけだった。
# 米沢藩: 戊辰戦争による死者は283人。【江戸300藩の意外な「その後」 日本博学倶楽部 PHP研究所】
# 米沢藩(よねざわはん): 出羽国。米沢城。上杉家。外様大名。30万石。慶長6年に立藩。控間:大広間。格:国主。位階:従三位。上屋敷:千代田区霞が関。関ヶ原の合戦に敗れた上杉景勝が、会津120万石から米沢30万石に減封されて立藩した。廃藩置県まで上杉家が続いた。【出典】
# 米沢藩【歴史人 2018.08.No92 江戸三百藩「仕事と暮らし」】
・ 表高15万石、実高28.5万石。
・ 人口(明治元年): 127,277人。
・ 家臣団(文化年間): 侍組96人、中之詰54人、三手組886人、外様方体28人、三扶持方710人、三扶持方並268人、訴文組1101人、足軽1891人。合計5034人。
# 米沢藩士: 甘糟家 ・ 芋川家 ・ 色部家 ・ 岩井家 ・ 大石家 ・ 大狭家 ・ 柿崎家 ・ 黒川家 ・ 斎藤家 ・ 島津家 ・ 須田家 ・ 武田家 ・ 竹俣家 ・ 千坂家 ・ 綱島家 ・ 土佐林家 ・ 中条家 ・ 南雲家 ・ 仁科家 ・ 莅戸家 ・ 東条家 ・ 平林家 ・ 古田家 ・ 堀内家 ・ 本庄家 ・ 真島家 ・ 三潴家 ・ 村山家 ・ 山岸家 ・ 山吉家 ・ 吉江家 ・ 安田家 ・ 夜叉家 ・ 綿貫家 ・ 藁科家
■ 米沢新田藩
【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。