「本庄」の名字の由来 | |
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■ 本庄(ほんじょう)
【2023/05/19:改編】
# 地名姓で各地にみられる。
# 代表家紋
# 武蔵の本庄氏は、武蔵国児玉郡本庄(埼玉県本庄市)をルーツとし、武蔵七党の児玉党の出。
# 武蔵国児玉郡の国衆。武蔵七党の児玉党の荘氏の末裔だが、祖とされる賀応に至る系譜は不詳。鎌倉時代には幕府の御家人だった。戦国時代、実忠は山内上杉氏に即し、山内上杉氏の滅亡後には北条氏に属して、弘治2年(1556年)に本庄城(埼玉県本庄市)を築いた。跡を継いだ近朝は、天正10年(1582年)に滝川一益が厩橋城主になるとそれに仕えたが、まもなく北条氏につき、天正18年(1590年)の豊臣秀吉の小田原攻めでは小田原城に籠城し、落城とともに自害して滅亡した。【出典】
# 越後の本庄氏は、越後国岩船郡本庄(新潟県村上市)をルーツとし、桓武平氏の秩父氏の出。江戸時代には米沢藩士。明治維新後には、北海道に移住したという。
・ 平安時代に藤原氏の一族の中御門家の荘園が越後国岩船郡にあり、小泉荘と呼ばれた。そこに新たに開発された地域が加わり、今までの地域は本荘と呼ばれ、新しい地域は加納といった。鎌倉時代にその地の地頭を務めたのが武蔵国の秩父氏で、秩父行長がこの地に住んで本庄氏を称した。
# 越後国岩船郡の国衆。桓武平氏の秩父氏の一族。季長が源頼朝から越後国小泉荘の地頭に補せられて下向。子の行長は同荘内の本庄に住んで北条氏を称した。以後本庄城(村上城・新潟県村上市)に拠った。戦国時代には揚北衆に属し、時長はしばしば上杉氏に叛乱を起こした。孫の繁長も永禄11年(1568年)には謙信に対して叛乱を起こしたが、御館の乱では上杉景勝方について、その後は景勝の重臣として出羽国の大宝寺氏の内訌に介入した。天正16年(1588年)には最上義光と戦って出羽国庄内を平定した。江戸時代には米沢藩の重臣を務めた。【出典】
# 下総の本庄氏は、下総国三崎荘本庄郷(千葉県銚子市)をルーツとし、桓武平氏の東氏の庶流。
# 新潟県の本庄家
# 岐阜県の本庄家
# 京都府の本庄家
# 平安時代、藤原氏の一族の中御門家の有する荘園が越後国岩船郡にあり、小泉荘といった。その荘園が拡大すると、昔からの領域を本荘と言った。小泉荘の地頭頭として鎌倉幕府から派遣されたのが、武蔵国の秩父郡の出の秩父氏だった。本荘に住んだ秩父行長は本庄氏を称した。その本庄氏が築いたのが村上城。【小さな城下町 安西水丸 文藝春秋社】
# 本庄家(ほんじょうけ): 家紋「竹輪に二羽飛び雀紋」
・ 桓武平氏の秩父氏流。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】
# 国衆(国人)
# 「本」のつく名字。
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