「庄」の名字の由来
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■ 庄・荘(しょう)

【2022/10/21:改編】

# 全国に点在するが、特に兵庫県や大分県にまとまってみられる。

# 兵庫県では宍粟市に、大分県では大分市に多くみられる。

# 武蔵国児玉郡本庄(埼玉県本庄市)をルーツとし、武蔵七党の児玉党の出。児玉家広の子の弘高が庄氏を称した。

# 備中国の庄氏は武蔵国の庄氏の一族。

# 埼玉県の庄家

# 庄・荘(しょう): 有名なのは武蔵七党の児玉党で、児玉家弘の子の庄弘高を祖とする。一族は各地に広がり、備中国小田郡草壁の荘氏、近江国甲賀郡の庄氏ほか他の地域にも多い。なおあ、本庄氏は庄弘高の子の家次に始まる。代表家紋は「軍配団扇紋」「下り藤紋」。【出典】【家紋のデータ

# 備中国小田郡の国人武蔵七党の児玉党に属した庄氏の一族。源平合戦の際に、家長は源氏に属し、1184年の一の谷合戦で平重衡を生け捕るなどの功をあげ、備中国小田郡草壁荘(岡山県小田郡矢掛町)の地頭となったのが祖。猿懸山城に拠り、備中南部の有力国人として発展、室町時代には守護細川氏のもとで備中守護代をつとめた。
元資は備前国や備後国にも進出、1491年には守護の細川勝久と戦うなど、守護の権力を侵しはじめた。子の為資は1533年に守護代上野氏を滅ぼして松山城に本拠を移し、備中半国を支配した。しかし、出雲守護代の尼子晴久の備中進出にさいして降り、猿懸合戦後に没落し、嫡子の高資は1571年に毛利・三村勢に敗れて討ち死に、その子の勝資は出雲に逃れたのちに毛利氏に仕えたが、1580年に討ち死にした。【出典】 

# 庄(しょう): 武蔵国児玉郡本庄(埼玉県本庄市)をルーツとする。武蔵七党の児玉党の出。児玉家広の子の弘高が庄氏を称した。【出典

# 庄(しょう): 旗本の庄家は、同じく児玉党の出か。【出典

# 庄(しょう): 弘高の甥の高家(家長)は一の谷合戦で功を上げて備中国草壁荘(岡山県)を与えられて下向、備中庄氏となった。室町時代には元資が備中国の守護代をつとめた。【出典

# 庄(しょう): 現在は山陽地方と大分県に多く見られる。【出典

# 荘(しょう): 前項の庄氏の一族。家長は源氏に属して一の谷合戦で功を上げ、備中国小田郡真壁荘(岡山県小田郡矢掛町)の地頭になった。猿掛城に拠った。以後、備中南部の有力国人として発展し、室町時代には守護細川氏のもとで備中の守護代を務めた。1533年に荘為資は上野氏を滅ぼして松山城に本拠を移し、備中半国を支配したが、のちに尼子晴久に降った。孫の勝資のときに毛利氏に仕えた。【出典

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