「三村」の名字の由来
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■ 三村(みむら)

【2023/05/23:改編】

# 代表家紋

# 備中の三村氏は承久の乱後、新補地頭として信濃国洗馬郷(長野県東筑摩郡朝日村)から備中国川上郷に入部したのが祖。南北朝時代には三村左京亮が成羽荘(岡山県川上郡成羽町)を領した。その後、備中国の有力国人として成長し、1533年に成親が成羽城(成羽町)に拠った。のちに荘氏を破って備中国北部を支配下が、1575年に元親のときに小早川隆景に敗れて滅亡した。【出典

# 現在も山陽地方に多く見られる。【出典

# 山陽地方に多く見られ、とくに岡山市から福山市にかけて多い。また、長野県松本市から塩尻市にかけてや、茨城県水戸市付近にもまとまってみられる。

# 備中の三村氏は承久の乱後、新補地頭として信濃国洗馬郷(長野県東筑摩郡朝日村)から、備中国川上郷に転じたのが祖。【出典

# 中世、信濃国洗馬荘(長野県塩尻市)にあった三村氏は、承久の乱後に新補地頭として関東から転じた。後に武田氏に破れ、後庁氏を称した。【出典

# 備中国の大族は常陸国筑波郡三村をルーツとする。後に、信濃国を経て備中国成羽に転じ、鎌倉時代以降に勢力を持ち、戦国時代初期に備中国を支配したが、やがて宇喜多氏に押されて滅亡した。源姓と言われる。他に、筑前国・豊前国・甲斐国・磐城国などに見られる。代表家紋は「三つ引両紋」「三つ鱗紋」「剣片喰紋」「三文字紋」。【出典】【家紋のデータ

# 小笠原氏庶流に三村氏がある。

# 備中国川上郡の戦国大名常陸国の出で、承久の乱後、新補地頭として信濃国洗馬郷(長野県東筑摩郡朝日村)から備中国川上郡(岡山県井原市美星町)に入部したのが祖。南北朝時代には三村左京亮が成羽荘(岡山県高梁市成羽町)を領した。その後、備中国の有力国人として成長し、天文2年(1533年)に成親が成羽城(岡山県高梁市成羽町)に拠った。家親は毛利氏に属して鶴首城に拠って、永禄4年(1561年)には尼子氏方の吉田義辰を討って備中松山城を奪った。さらに、美作国にも侵攻したが、永禄9年に美作国久米南条郡籾村(岡山県久米郡久米南町)の興禅寺で宇喜多直家の刺客に鉄砲で暗殺された。子の元親は翌年に宇喜多氏を討つために備前国に兵を進めたが、明禅寺の合戦で敗れた。天正元年(1573年)に宇喜多氏毛利氏が与したことから、元親は織田信長と結んだため両軍の追討を受けて、天正3年に落城して自刃して、三村氏は滅亡した。【出典

# 三村家(みむらけ): 家紋「剣片喰紋」【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】

・ 備中国上房郡松山(岡山県高梁市内山下)を本拠地とした。

・ 元は常陸国筑波郡三村郷の領主で、承久の乱で備中国成羽荘を賜り転じた。後に、毛利氏に滅ぼされた。

# 「数・数字」のつく名字

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