小早川秀秋・隆景
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■ 小早川秀秋(こばやかわひであき)【出典】
・ 「小早川」の名字。
・ 1582ー1602年。享年21歳(病死)。
・ 出身地: 近江国(滋賀県)
・ 肩書き: 武将。
・ 家族: 父:木下家定
・ 家紋: 左三つ巴紋
・ 豊臣秀吉の正室の北政所の兄である木下家定の五男。幼少期から秀吉の養子として育ったが、愚か者と言われた。豊臣秀頼が生まれると秀吉の寵愛は薄れ、小早川隆景の養子に出された。当初は毛利輝元の養子になるはずだったが、隆景が宗主を守るために自分で秀秋を養子にしたという。関ヶ原の合戦では立場上、西軍についたが、事前に離叛していたが、戦いが始まっても一向に動かなかったため、徳川家康が鉄砲を撃ち込んだためようやく西軍に攻撃したという。これによって西軍の壊滅が早まったという。戦後はその功により岡山藩55万石を賜ったが、内政が乱れ、秀秋自身も21歳で死去。跡継ぎもいなかったため小早川家は断絶した。
・ 1533−1597年。享年65歳(病死)。
・ 出身地: 安芸国。
・ 肩書き: 武将。
・ 家族: 父:毛利元就。
・ 家紋: 左三つ巴紋。
・ 毛利元就の三男で、1544年に安芸国の小早川家に養子には入った。後に、父の元就と大内義隆の強引な政略のもと、沼田小早川家から正室を迎えて、小早川家を継いだ。兄の吉川元春とともに、「毛利両川(りょうせん)」と言われた。織田信長が侵攻してくると、それを向かい討ったが、羽柴秀吉との戦いでは旗色不利を感じて、和睦に動いた。そのおり、信長が本能寺の変で死亡すると、秀吉は信長の死を伏せて隆景と和睦して畿内に反転した。兄の元春は追撃を主張したが、隆景はそれを違約として追わなかった。その後は、秀吉に協力して四国・九州・小田原攻めに参陣し、朝鮮半島にも出兵して明軍の撃退の功績をあげた。
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