平氏の人々
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■ 「平」の名字の由来

■ 平清盛(たいらのきよもり)

■ 平将門(たいらのまさかど)

■ 平敦盛(たいらのあつもり): 1169−1184年。平経盛の子で、平清盛の甥。一ノ谷の戦いで熊谷直実に討たれた。【出典

■ 平貞盛(たいらのさだもり): 生没年不詳。父の平国香が従兄弟の平将門を襲ったが、返り討ちに合って殺された。貞盛も将門と何度か戦いに敗れたが、940年に藤原秀郷と協力して、将門を討った。【出典

■ 平重衡(たいらのしげひら): 1157−1185年。平清盛の子。1180年に、福原京からの遷都後に、平清盛の命で、反平家勢力の南都興福寺・東大寺を焼き討ちにした。のちに捕らえられて、奈良に近い木津川のほとりで処刑された。【出典

■ 平重盛(たいらのしげもり): 1138−1179年。平清盛の長子。保元の乱平治の乱で活躍した。温厚で、鹿ヶ谷の陰謀後の清盛の後白河法皇への激しい対処を諫めたという。清盛と後白河法皇との和解に努めたが、清盛より先に病死した。【出典

■ 平忠常(たいらのただつね): ?ー1031年。武将で平高望の曽孫。東国に勢力を持った。千葉氏上総氏は子孫。1028年に房総地方内乱(平忠常の乱)を起こしたが、源頼信に降伏して、護送中に死亡した。【出典

■ 平忠盛(たいらのただもり): 1096−1153年。平正盛の長子で、平清盛の父。白河上皇鳥羽上皇の寵愛をうけて出世した。瀬戸内海の海賊を討って、昇殿を許された。日宋貿易で財を成して平家繁栄の基礎をつくった。【出典

■ 平時子(たいらのときこ): 1126−1185年。平清盛の正室。平宗盛、平重衡、平徳子などの母親。清盛が死んだのちは仏門に入って、二位尼と称せられ、平家の精神的な支えになった。壇ノ浦の戦いで宝剣と神璽(しんじ)を身につけて、安徳天皇を抱いて入水した。【出典

■ 平徳子(たいらのとくこ): 1155−1213年。建礼門院。平清盛の娘。高倉天皇の中宮で、安徳天皇の母。高倉天皇の没後には建礼門院を称した。壇ノ浦で入水したが、助けられて大原寂光院で隠棲した。【出典

■ 平時忠(たいらのときただ): 1127−1189年。平清盛の正室の平時子の弟。「此一門にあらざむ人は皆人非人なるべし(平家にあらずんば人でなし)」と述べたことで有名。権勢をふるったが、平家の滅亡後は源義経に取り入って保身をはかったが、最後には、源頼朝によって能登国に流された。【出典

■ 平知盛(たいらのとももり): 平清盛の四男。兄の平宗盛を補佐して、各所で源氏と戦った。壇ノ浦の戦いでは、一門の最後を見届けてから、いかりを担いで入水したという。【出典

■ 平教盛(たいらののりもり): 1128−1185年。平忠盛の子。保元の乱平治の乱では異母兄の平清盛を助けて戦った。平家の都落ちの後に、源行家播磨国で破り、平家方の勢力を挽回した。一ノ谷、壇ノ浦の戦いで力尽いて、兄の平経盛とともに入水した。【出典

■ 平正盛(たいらのまさもり): 生没年不詳。平忠盛の父で、平清盛の祖父。伊賀国伊勢国に勢力をもって、白河上皇に重用された。1108年に源義親を討って、伊勢平氏の武名をあげた。【出典

■ 平宗盛(たいらのむねもり): 1147−1185年。平清盛の三男で、清盛の死後は、平家一門を統率した。壇ノ浦の戦いで子どもの清宗と共に捕らえられて、鎌倉に送られた。源頼朝と対面後に処刑された。【出典

■ 平頼綱(たいらのよりつな): ?ー1293年。北条氏内管領。九代執権北条貞時に讒言して、霜月騒動で安達氏を滅ぼした。しかし、その後の独裁的な支配で不満を買い、貞時の軍勢に吸収されて自害し、一族も滅亡した。【出典

■ 平頼盛(たいらのよりもり): 1132−1186年。平忠盛の子。平清盛とは異母弟だが不仲だった。母の池禅尼が平治の乱ののちに、源頼朝を助けたために、頼朝は、平家の西走のときに都に残っていた頼盛を保護した。平家の滅亡後には出家したが、子孫は栄えた。【出典


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