「大宝寺」の名字の由来
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■ 大宝寺(だいほうじ)

【2023/05/08:改編】

# 出羽国田川郡大泉荘大宝寺(山形県鶴岡市大宝寺)をルーツとする。藤原北家の出。鎌倉時代初期に、武藤頼平の次男の氏平が大泉荘の地頭になり、大泉氏を称した。南北朝時代に長盛が大宝寺へ転じて大宝寺氏を称した。室町時代には本家の武藤氏を凌いで、出羽国の有力国人となって上杉氏に従ったが、1587年に義興が自刃していったん滅亡した。その後、上杉氏の家臣の本庄繁長の二男の義勝が大宝寺氏の名跡を継いだが、1592年に庄内一揆の鎮圧に失敗して改易となった。【出典

# 羽前国田川郡の戦国大名藤原北家の出で、源頼朝に仕えた武藤資頼が、奥州攻めの功で大泉荘の地頭になったのが祖。資頼はのちに九州に転じ、弟の氏平が大泉荘を継いで大泉氏になった。南北朝時代に長盛が大宝寺城(山形県鶴岡市大宝寺)に転じて大宝寺氏を称した。室町時代には、本家の武藤氏を凌いで出羽国の有力国衆となり、上杉氏に従った。1583年に最上義光に従う国衆に攻められて義氏が自刃、跡を継いだ弟の義興は上杉氏家臣の本庄繁長の二男の義勝を養子として対抗したが、その後最上義光に滅ぼされた。その後、養子の義勝が大宝寺氏を継ぎ、実父の本庄繁長とともに庄内地方を回復したが、1592年の庄内一揆の鎮圧に失敗して、豊臣秀吉改易された。【出典

# 出羽国田川郡の戦国大名藤原北家の出。源頼朝に仕えた武藤資頼が奥州攻めで功をあげて大泉荘の地頭に補せられたのが祖。資頼はのちに九州に転じ、弟の氏平が大泉荘を継いで大宝寺氏を称し、庄内地方を支配した。室町時代前期の教氏・淳氏・建氏の三代は斯波家からの偏諱(へんき)とみられる他、政氏・澄氏父子は足利将軍家から偏諱の可能性もあるなど、幕府と密接な関係を持っていたとみられ、寛正3年(1462年)には淳氏が出羽守に任ぜられた。天正11年(1583年)に義氏は最上義光に従う国衆に攻められて自刃。跡を継いだ弟の義興は上杉氏の家臣の本庄繁長の二男の義勝を養子に迎えて対抗したが、天正15年に最上義光に敗れて自刃し一旦は滅亡した。その後、養子の義勝が大宝寺氏を継ぎ、実父の本庄繁長とともに庄内地方の領地を取り戻したが、文禄元年(1592年)に庄内一揆の鎮圧に失敗して豊臣秀吉によって改易となった。【出典

# 大宝寺家(だいほうじけ): 家紋「六つ目結紋」

・ 出羽国田川郡尾浦(山形県鶴岡市)を本拠地とした。

・ 天正15年(1587年)に最上義光に滅ぼされた。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】

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