永享の乱・長享の乱
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■ 永享の乱(えいきょうのらん)

# 室町時代の永享10年(1438年)に関東地方で発生した戦乱。第四代鎌倉公方足利持氏関東管領上杉憲実の対立に端を発する、室町幕府六代将軍足利義教が持氏討伐を命じた事件、戦いである。【Wikipediaより】

# 永享の乱・長享の乱: 関東管領山内上杉氏藤原北家勧修寺高藤流で、重房の猶子の宗尊親王建長4年(1252年)に鎌倉幕府の第六代将軍になると、これに従って鎌倉に下向、武家に転じて丹波国何鹿郡上杉荘(京都府綾部市上杉町)を領して上杉氏の祖になった。頼重の娘の清子は足利貞氏に嫁いで尊氏を産んだことから、以後は足利氏の外戚として重臣をつとめた。室町幕府が樹立すると、憲顕は鎌倉にいた足利義詮の執事になって上野国守護になって、のちに越後国の守護も兼ねた。また、重能は伊豆国守護になり、関東における上杉氏の基盤を築いた。貞治2年(1363年)に憲顕は関東管領になると、以後は管領を独占。その後、山内・宅間・犬懸・扇谷の四家に分裂した。山内家は貞治2年(1363年)に憲顕が関東管領になり、相模国鎌倉山内に住んだのが祖。応永23年(1416年)に上杉弾秀の乱で犬懸家が失脚すると、以後は山内家が関東管領を独占。越後国上杉家から山内家を継いだ憲実は、将軍を目指した鎌倉公方足利持氏と対立し、結局幕府の介入で持氏は自害した。これを永享の乱という。乱の後には、憲実と子の憲忠が対立し、長尾氏に推された憲忠が関東管領になった。その後は、扇谷家と激しく争った。これを長享の乱といい、やがて鉢形城を拠点として武蔵国・上野国の戦国大名になった。一方、延徳3年(1491年)には北条早雲によって伊豆国を奪われ、大永4年(1524年)には江戸城、翌年には岩付城が北条氏綱によって落とされて、次第に没落した。天文15年(1546年)に憲政は河越夜戦で北条綱成氏康に敗れて武蔵国を失い、上野国の平井城に逃れた。しかし、天文20年には平井城も追われて厩橋城に逃れ、翌年にはついに関東を捨てて越後国守護代の長尾景虎のもとに走った。そして、永禄2年(1559年)に山内家の名跡と関東管領職を景虎に譲って滅亡した。【出典

# 長享の乱(ちょうきょうのらん): 長享元年(1487年)から永正2年(1505年)にかけて、山内上杉家上杉顕定関東管領)と扇谷上杉家の上杉定正(没後は甥・朝良)の間で行われた戦いの総称。この戦いによって上杉氏は衰退し、伊勢宗瑞(北条早雲)を開祖とする後北条氏の関東地方進出の端緒となった。【Wikipediaより】

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