「足利」の名字の由来
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■ 足利(あしかが)

【2021/02/03:改編】

# 3532位

# 清和源氏藤原北家秀郷流などにみられる。

# 代表家紋

# 秋田県:716位、岩手県:881位、鳥取県:945位。

# 足利: 「足」は「芦」や「葦」が変化したもの。「利」は「イネ科の植物」を意味し、また「加える」という意味を持つ。「足利」は葦や葦が生い茂っている土地を意味する。

# 足利氏は河内源氏を祖とし、平安時代に源義家の三男の義国が下野国足利郡足利荘(栃木県足利市)に領地を持ち「足利」を名乗った。足利尊氏の家紋

# 足利には藤原北家の出の足利氏もいた。現在の足利姓の多くは、藤原姓の足利氏の末裔と言われる。

# 足利氏から派生した名字には「渋川(上野国渋川?河内国渋川郡?)」「一色三河国吉良庄一色)」「吉良三河国幡豆郡吉良荘)」「最上(清和源氏流の奥州探題斯波家兼の次男兼頼が出羽国山形に入部、最上氏を名乗った)」「石橋」「広沢上野国山田郡広沢村)」「天童羽前国村山郡天童村)」「関口」「斯波(しば)『陸中国紫波(斯波)郡』」「細川三河国額田郡細川郷)」「今川三河国幡豆郡今川庄)」「畠山武蔵国男衾郡畠山庄)」などがある。

# 1221年の承久の乱後、足利尊氏は三河の守護となり、吉良一色今川などが子孫。

# 歴史的に有名な足利尊氏は室町幕府の初代征夷大将軍で、生誕の地には「京都府綾部市上杉荘」「鎌倉」「下野国足利荘」説の三つがある。その他歴史的な有名人はいるが、現代人としての足利姓の有名人は見あたらない。

# 足利将軍家には本家とならぶ関東公方の家があった。足利尊氏が二代将軍の義詮(よしあきら)の弟の基氏(もとうじ)に関東の支配をゆだね、関東管領(後に関東公方と名乗る)とした。基氏の子孫が喜連川を名乗って江戸時代も存続した。

# 足利将軍家は15代でほろんだが、古河公方は江戸時代喜連川藩(5千石・10万石格)で存続し、平島公方は第12代将軍の足利義晴の弟の義維が阿波国平島(徳島県那賀川町)に住んだのが祖。

# 1455年、足利成氏は幕府軍にやぶれ、小山氏結城氏佐竹氏の支援で古河公方を称した。執事の上杉家は足利義政の子の政知を伊豆に迎えて堀越公方を称した。

・ 堀越(ほりごえ): 室町時代に伊豆国田方郡にみられる地名。「鎌倉大草紙」によると長禄元年12月に足利義政の弟の足利政知が京都より伊豆に到着したが、鎌倉に御所がないため「伊豆の北条に堀越」という所に仮に屋形を建て、伊豆国を支配した旨述べている。これ以後、政知を堀越公方あるいは伊豆公方と呼び、下総国古河によった成氏は古河公方と称され、関東に2公方が並び立つことになった。政知は延徳3年に死去し、2代目堀越公方は茶々丸が継いだが伊勢宗瑞に攻められ、同年10月11日滅亡した。現在の韮山町大字四日町のうち。【出典

# 足利(鎌倉公方)→古河公方→喜連川

・ 鎌倉公方の足利成氏(しげうじ)は、関東管領の上杉氏や幕府と対立して1455年に鎌倉を追われて古河に移り、古河公方と呼ばれた。1554年に北条氏康に破れた。

# 栃木県の足利家: 喜連川藩主(5千石・10万石格)。【家紋:二つ引両紋明治維新後には子爵

# 京都府の足利家: 室町時代の将軍家。清和源氏の出で、源義家の子の義国が祖。義国は義家から下野国足利郡足利荘(栃木県足利市)を譲られて土着し、子の義康が足利氏を称したのが祖。義康は熱田大宮司を通じて源頼朝と縁続きになり、子の義康以降は代々北条氏と姻戚関係を結んだ。1238年に義氏が三河国の守護となり、一族は下野国と三河国に広く広がった。1333年に尊氏は挙兵して建武政権の樹立に功をあげるが、やがて後醍醐天皇の新政に不満を持って離反、武家による政治を目指して室町幕府を開いた。1392年に三代将軍義満のときに南北朝を合一。八代義政の時に応仁の乱がおこり、以後幕府の勢力は衰えた。十三代義輝は三好長慶との闘争に明け暮れ、上杉謙信、斎藤義龍、織田信長などと結んで幕府の権威回復につとめた。一方、塚原卜伝に剣を学んだことでも知られる。三好長慶の没後には三好三人衆と対立。1565年に京都武衛陣の仮御所で松永久秀に攻められて自刃した。興福寺一乗院に入っていた弟の覚慶は直後に一乗院を脱出して近江の和田惟政を頼り、若狭武田氏、越前朝倉氏を経て、1568年に美濃に移って織田信長の食客となった。そして、同年信長に擁立されて十五代将軍足利義昭となった。義昭は将軍として親政しようとしたが、これを認めない信長と対立、1573年に信長によって京都を追われ、将軍家は名実ともに滅亡した。義昭は将軍職のまま、毛利氏の支配下にある備後国の鞆の浦に亡命。秀吉の天下統一後に将軍職を辞して出家、秀吉から山城国槙山で1万石を認められた。その後1997年に義昭は大坂で死去して断絶した。【出典

# 徳島県の足利家: 平島公方家。室町幕府の11代将軍の足利義澄の次男の義維が、1534年に細川持隆に阿波国に迎えられ、那賀郡平島荘(徳島県阿南市那賀川町)に住んで、平島公方を称した。以後、土着し、江戸時代には徳島藩士。しかし、1805年に藩の冷遇に耐えかねて、藩を去って京に転じた。【出典

【新編日本姓氏辞典】千葉琢穂編著 展望社 より

(1) 藤原氏族北家_秀郷流足利氏。秀郷第七代のの成行が、下野国足利に住し、足利大夫を号して元祖とす。「藤姓足利氏」。

(2) 清和源氏義家流。鎮守府将軍義家の三男の加賀介義国が、下野国足利郡に住す。その子の義康は足利陸奥判官と称して、足利を家号となし、足利氏の祖となる。

■ 足利【出典

# 「アシカガ」は「芦の生えている所」を意味する。

# 下野国足利郡をルーツとする。

(1) 藤原姓: 藤原秀郷五世の淵名(ふちな)兼行の子の成行が足利大夫を称した。後に衰退した。

(2) 清和源氏: 八幡太郎源義家の孫の義康が足利氏を称した。 後に、豊臣秀吉によって、足利尊氏の二男の基氏から出た関東公方が再興され、下野国喜連川を与えられ、喜連川氏を称した。

※ 余談だが、江戸時代喜連川藩は、公称五千石だが、十万石の格式として有名ですよねぇ。そんな本もあったような。

【知って楽しい「苗字」のウンチク 丹羽基二 PHP文庫】

# 足利(あしかが)

・ 「かが」とは、古語で「得をする」という意味。

# 足利氏の後裔

・ 「荒川」「石橋」「一色」「今川」「加子(かこ)」「吉良」「斯波(しば)」「畠山」「広沢」「細川」「矢田」【名字の謎学 博学こだわり倶楽部編 KAWADE夢文庫】

# 足利家


■ 「足利」の地名 

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