京都府内の「足利」の名字の詳細
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■ 足利(あしかが): 京都府の足利家

# 京都府の足利家: 室町時代の将軍家。清和源氏の出で、源義家の子の義国が祖。義国は義家から下野国足利郡足利荘(栃木県足利市)を譲られて土着し、子の義康が足利氏を称したのが祖。義康は熱田大宮司を通じて源頼朝と縁続きになり、子の義康以降は代々北条氏と姻戚関係を結んだ。1238年に義氏が三河国の守護となり、一族は下野国と三河国に広く広がった。1333年に尊氏は挙兵して建武政権の樹立に功をあげるが、やがて後醍醐天皇の新政に不満を持って離反、武家による政治を目指して室町幕府を開いた。1392年に三代将軍義満のときに南北朝を合一。八代義政の時に応仁の乱がおこり、以後幕府の勢力は衰えた。十三代義輝は三好長慶との闘争に明け暮れ、上杉謙信斎藤義龍織田信長などと結んで幕府の権威回復につとめた。一方、塚原卜伝に剣を学んだことでも知られる。三好長慶の没後には三好三人衆と対立。1565年に京都武衛陣の仮御所で松永久秀に攻められて自刃した。興福寺一乗院に入っていた弟の覚慶は直後に一乗院を脱出して近江の和田惟政を頼り、若狭武田氏、越前朝倉氏を経て、1568年に美濃に移って織田信長の食客となった。そして、同年信長に擁立されて十五代将軍足利義昭となった。義昭は将軍として親政しようとしたが、これを認めない信長と対立、1573年に信長によって京都を追われ、将軍家は名実ともに滅亡した。義昭は将軍職のまま、毛利氏の支配下にある備後国の鞆の浦に亡命。秀吉の天下統一後に将軍職を辞して出家、秀吉から山城国槙山で1万石を認められた。その後1997年に義昭は大坂で死去して断絶した。【出典】 

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