後醍醐天皇 | |
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■ 九十六代: 後醍醐(ごだいご)天皇
# 正応元年(1288年11月2日)生。後宇多天皇の子。文保2年(1318年2月26日)に31歳で践祚。延元4年(1339年8月16日)に52歳で崩御。
# 後醍醐天皇(ごだいごてんのう)【出典】
・ 1288−1339年。享年52歳(病死)。
・ 出身地: 京。
・ 肩書き: 第九十六代天皇。
・ 元寇で多くの出費をしたことによって、鎌倉幕府の財政基盤が弱体化した頃に、朝廷では持明院統と大覚寺統に分裂し、皇位や荘園相続をめぐって争いが続いた。これらの朝廷は幕府によってなされていたが、1318年に即位した大覚寺統の後醍醐天皇は、幕府の干渉を嫌って、天皇の権限を強化しようとした。後醍醐天皇は、諸国で幕府に批判的な御家人たちの経済力や軍事力を調べた。その結果、倒幕できると判断した。しかし、具体的に挙兵する段になるといずれも計画が発覚し、後醍醐天皇は隠岐に流された。これらを、1324年の正中の変や1331年の元弘の変という。しかし、皇子の護良親王らの呼びかけで、河内国の楠木正成が、播磨国で赤松則村らを筆頭に、伊予国では土居氏や得能氏、九州では菊池氏や阿蘇氏などが挙兵した。後醍醐天皇が名和長年を頼って隠岐から脱出すると、兵はさらに増加して、全国的な倒幕へと発展した。そして、幕府側から寝返った足利尊氏が京の六波羅探題を滅ぼして、上野国で挙兵した新田義貞が鎌倉を攻略して、鎌倉幕府は1333年に滅亡した。その後後醍醐天皇は京に入って、天皇中心の新しい政治をはじめた。これを建武の新政という。院政・摂政・関白を否定し、土地の所有権が天皇にある旨の法令を出すなど天皇に権力を集中しようとした。諸国には国司と守護を併置するなど、旧幕府の組織を利用した。しかし、倒幕の功労者の武士を冷遇して、貴族や天皇一族を厚遇したため、武士の支持を失っていった。そんなおりに、鎌倉の奪還を図ろうと北条時行が乱をおこした。これを中先代の乱という。これを鎮圧したのは足利尊氏だったが、尊氏はそれをきっかけに反旗を翻した。京は1336年に尊氏に制圧されて、後醍醐天皇は吉野へ逃れた。尊氏は京で持明院統の光明天皇を擁立したため、後醍醐天皇は大覚寺統こそ正統な皇位として南朝を開いた。しかし、1339年に、後醍醐天皇は病に倒れ、崩御した。
【参考: 令和日本史記 126代の天皇と日本人の歩み 八幡和郎 ワニブックス】
【参考: 日本人なら知っておきたい 天皇家の謎 「歴史読本」編集部 KADOKAWA