楠木正成
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■ 楠木正成(くすのきまさしげ)出典】: 「楠木」の名字の由来

・ ?ー1336年。享年不詳(自害)。

・ 出身地: 河内国

・ 肩書き: 武将。

・ 家族: 弟:楠木正季。子:楠木正行。

・ 楠木正成の生まれは、鎌倉時代後半に力をつけてきた振興武士の「悪党」である。生い立ちの様子は不詳。倒幕に挙兵したのは1331年。倒幕計画が漏れた後醍醐天皇が笠置山(京都府)で挙兵した(元弘の変)ことに応じたもの。正成の軍は、総勢数百人で下赤坂城や千早城に籠城して、足利尊氏を含めた幕府の大軍を相手に、熱湯や糞尿、大木を投下するなどのゲリラ戦を展開して善戦した。後醍醐天皇も楠木正成も最後には鎮圧され、天皇は隠岐に配流され、正成は上赤坂城に逃げた。しかし、正成の奮戦に触発されたため、倒幕の機運は全国的に広まって、第一皇子の護良親王が挙兵を呼びかけると、各地で挙兵した。正成は、後醍醐天皇の夢告(むこく)によって、臣下に抜擢されたいきさつがあった。天皇が神に「大木の南が座る場所だ」と告げられたため、天皇は木の南なら楠だと連想し、正成をとりたてた。正成はこれを受けて、「この君に命をかけて尽くす」と誓って、倒幕に活躍した。建武の新政でも正成は後醍醐天皇から絶大の信任を受けた。しかし、心痛は天皇の悪政を認めざるを得なかったことである。同士の護良親王が天皇に諫言したが、天皇に受け入れられず、逆に謀反の嫌疑で護良親王が幽閉された際には、正成も役職の多くを辞して抵抗した。1335年に、足利尊氏が鎌倉で新政権に反旗を翻して、京へ迫ると、正成は北畠顕家とともに応戦した。その後、正成は新田義貞に属して出陣するように命じられ、湊川(兵庫県)で足利直義の大軍と戦った。しかし善戦しながらも敗れ、弟の楠木正季と互いに差し違えて自害した。

■ 楠木正行(くすのきまさつら)

・ ?ー1348年。楠木正成の嫡男。正成が大楠公(だいなんこう)と呼ばれてからは、小楠公(しょうなんこう)と呼ばれた。父の遺志を継ぎ、一族の棟梁となって南朝方として戦い続けた。1347年に、足利尊氏から派遣された、山名時氏、細川顕氏らの連合軍を、摂津国で破った。しかし、翌年に高師直、師泰兄弟と四條畷の戦いで敗れた。父の正成と同様に、弟の正時と差し違えて自害した。【出典


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