「な」行の人々 | |
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■ 永井荷風(ながいかふう): 1879−1959年。欧米から帰国後、「あめりか物語」「ふらんす物語」を発表。官能的な美を追究する耽美派として活躍した。その後、大逆事件に憤り、戯作者として風俗小説を著した。【出典】
■ 中井正清(なかいまさきよ): 1565−1619年。初代の京の大工頭。関ヶ原の戦い以後には徳川家康に仕え、作事方として二条城、江戸城、日光東照宮など重要な建築に携わって、大工出身の身で官位を得た。【出典】
■ 中浦ジュリアン(なかうらじゅりあん): 1569?−1633年。天正遣欧使節の副使。司祭になった後は博多で活動。キリスト教禁止令発布後も地下活動を続け、信者を助けた。1633年に穴吊りの刑で殉教した。【出典】
■ 中江藤樹(なかえとうじゅ): 1608−1648年。朱子学を学んだが、次第に実践的道徳を説く陽明学に傾倒。故郷の小川村(滋賀県)に藤樹書院を開いた。近江聖人と称されて、日本陽明学の祖になった。【出典】
■ 中川秀成(なかがわひでなり): 1570−1612年。戦国武将で、豊臣秀吉に従って、文禄・慶長の役にも参陣した。関ヶ原の合戦では、西軍から東軍に寝返って、徳川家康に功績を認められた。江戸時代には岡藩の初代藩主になった。【出典】
■ 長倉新八(ながくらしんぱち): 1839−1915。新撰組の二番隊組長。松前藩の脱藩後、近藤勇らとともに、新撰組を結成。新撰組の解体後に、近藤勇と決別して、明治維新後まで生き延びた。【出典】
■ 長崎高資(ながさきたかすけ): ?ー1333年。十四代執権の北条高時の寵臣。父子二代にわたって内管領として幕府の実権を握った。賄賂政治で幕府の権威を失墜させた。新田義貞に攻められて、自害した。【出典】
■ 中沢道二(なかざわどうに): 1725−1803年。心学者。手島堵庵に学んだ。江戸に下り、「心学参前舎」を開き関東での心学普及に努めた。人足寄場でも講義した。【出典】
■ 長野業正(ながのなりまさ): 1491−1561年。上野国。箕輪城主。上杉憲政の家臣で河越夜戦に参戦。武田信玄が上野国西部に侵攻を開始すると対抗して上野国を守った。【出典】
■ 中村一氏(なかむらかずうじ): ?ー1600年。早くから豊臣秀吉に仕え、本能寺の変後の山崎の合戦などで武功をたてた。岸和田合戦で大蛸(おおだこ)に乗った法師と蛸の群れに城を救われたという伝説がある。後年、豊臣政権下では重臣をつとめた。関ヶ原の合戦では東軍に属したが、本戦前に病没した。【出典】
# 豊臣秀吉の家臣で、豊臣政権下の三中老の一人。生年や、秀吉に仕えた経緯は不明だが、甲賀二十一家の一つ。瀧(多喜)氏の出と考えられる。幾多の戦場において武功を立て、岸和田城主や水口城主を経て、徳川家康の関東入国後に駿府城主になった。関ヶ原の合戦では東軍に属するが合戦前に病没した。【出典】
■ 中村忠一(なかむらただかず): 米子藩18万石藩主。14歳で結婚したその夜に「不手際があった」と老臣の横田村詮を切り捨てた。その後、20歳で急死。【出典】
■ 那須与一(なすのよいち): 1169−?。平安時代末期の武将。源義経に従って、平家の追討戦で功績を成した。弓の名手として有名。【出典】
■ 長束正家(なつかまさいえ)
・ ?ー1600年。丹羽長秀に仕えていたが、長秀の死後は豊臣秀吉の家臣になった。財政・兵站の技術に優れ、五奉行の一人となった。関ヶ原の合戦では西軍に属して敗走して自害した。【出典】
・ 秀吉の五奉行の一人の長束正家は経理に明るく、丹羽長秀に仕えて、その後近江国水口12万石を領していたが、関ヶ原の合戦で西軍に属し、自害した。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】
・ 長束(なつか): 長束氏の出自は愛知県か滋賀県か?それが問題だ。どっちが本当なんだろう?
・ 長束(なつか): 愛知県稲沢市長束町。豊臣秀吉の五奉行の1人長束正家は当地の出身といわれ、長束正家邸址の碑が残る。地名については、「長束大蔵大輔の卜居せしより呼とぞ、されば村名は姓氏に出たり」という。【出典】
・ 長束(なつか): 滋賀県草津市長束町。当地は豊臣秀吉の五奉行の1人長束正家の出身地である。【出典】
■ 納屋助左衛門(なやすけざえもん): 堺の豪商。呂宋助左衛門ともいう。ルソンに渡航し、貿易で巨万の富を得た。贅を尽くした生活で、豊臣秀吉の怒りを買い、1598年にルソンに逃れた。【出典】
■ 奈良屋茂左衛門(ならやもざえもん): ?−1714年。奈良屋の4代目で、江戸の材木商。日光東照宮の改築、寺社造営などで幕府の御用商人になり、材木商で成功した。【出典】
■ 成田長親(なりたながちか): 1545−1613年。豊臣秀吉の小田原攻めの際に、本拠地の忍城で石田三成らと対峙し、水攻めを凌いだ。【出典】
■ 名和長年(なわながとし): ?−1336年。伯耆国の豪族。隠岐(隠岐島)を脱出した後醍醐天皇を伯耆船上山に迎えて挙兵し、討幕運動に参加。建武政府の要職についたが、1336年に足利尊氏と戦って、京で討ち死にした。【出典】
■ 南光坊天海(なんこうぼうてんかい): 1536?ー1643年。天台宗の僧。徳川家康の側近と成って、朝廷との交渉や宗教政策の決定に大きな役割を果たした。比叡山探題になって延暦寺の再興に尽力。家康の神号に権現を薦めた。家光にも仕え、江戸の都市計画にも関与した。【出典】
■ 南部晴政(なんぶはるまさ): 1517−1582年。陸奥国の戦国大名。南部信直の義父。1540年に家督を継いだ。謀反を起こした工藤氏を討って、南部氏を統一した。【出典】
■ 二階堂盛義(にかいどうもりよし): 1544?ー1581年。陸奥国岩瀬郡(福島県西部)の武将。所領を争って、蘆名盛氏に敗れ、息子の盛隆を人質にして和睦。その後は、盛隆が蘆名氏を継いで、盛隆の力を借りて対抗勢力であった田村氏を討った。【出典】
■ 西川如見(にしかわじょけん): 1648−1724年。天文暦算家。長崎出身。地理、経済にも通じる。長崎で得た海外事情・天文地理関連の知識を基に「華夷通商考」を著した。【出典】
■ 西山宗因(にしやまそういん): 1605−1682年。肥後国出の俳人で連歌師。京で連歌を学んで宗匠になった。俳諧でも活躍して、形式化・言語遊戯化した貞門派に対して、自由・軽妙な談林派の俳諧を創始した。【出典】
■ 二条良基(にじょうよしもと): 1320−1388年。公家で歌人。北朝の摂政・関白をつとめた。和歌と連歌に長け、僧の救済(ぐさい)と共に、准勅撰連歌集の「菟玖波集(つくばしゅう)」を編纂した。【出典】
■ 日親(にっしん): 1407−1488年。京に本法寺を開いた。他宗を攻撃したことで、足利義教によって投獄された。焼いた鍋を被せられる拷問を受けたことから、「鍋かぶり上人」とも言われる。【出典】
■ 新渡戸稲造(にとべいなぞう): 1862−1933年。「武士道」を英文で発表して日本文化を紹介。京都大学・東京大学の教授を歴任。国際連盟事務局次長として活躍した。【出典】
■ 忍性(にんしょう): 1217−1303年。真言律宗の僧。叡尊(えいぞん)の弟子。戒律復興に努め、鎌倉の極楽寺を開いた。また、ハンセン病患者を救済するための福祉施設の「北山十八間戸」を建てるなど、慈善事業を行い、道路・橋梁などの土木事業にも尽力した。しかし、その後日蓮と対立した。【出典】
■ 額田王(ぬかだのおおきみ): 万葉集に12首が収載された女流歌人。斉明天皇の時代から持統天皇の時代の白鳳時代に活躍した。日本書紀には、大海人皇子(天武天皇)の寵愛を受けて十市皇女(とおちのひめみこ)を生んだと記載されている。その後は、中大兄皇子(天智天皇)の寵愛を受けたという。【出典】
■ 野中兼山(のなかけんざん): 1615−1663年。南学派の儒学者。谷時中に師事。養父の跡を継いで、土佐藩の奉行になって、藩主の山内忠義の命で、新田開発や築港などの藩政改革に取り組んだ。【出典】
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