喜連川藩
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■ 喜連川(きつれがわ)藩: 栃木県さくら市喜連川

・ 喜連川家・外様・陣屋

・ 足利家(古河公方)。一応5千石だったが、格式は10万石といわれた。厳密にいえば他の大名のように知行ではなく、徳川家の客分としてのあつかい。

・ 喜連川左馬守(さまのかみ): 【江戸東京地名辞典 芸能・落語編 北村一夫】では「高家」とある。

・ 喜連川は奥州街道の宿場町。

・ 喜連川宿: 喜連川藩の城下町。通常、藩とは石高1万石以上の大名をいうが、ここは別格で、足利氏の血をひき「御所」と呼ばれた。

・ 喜連川宿は江戸から20番目の宿場町。奥州街道の起点の宇都宮からは4番目。江戸から36里。1843年の人口は1900人(290戸)。

・ 早乙女村は喜連川藩の領内

・ 喜連川藩は度重なる飢饉でも餓死者が出なかった。

・ 喜連川藩の10代?熙氏曰わく、物理的に豊かで公平になるためには、精神的に成長せねばならぬ。 

・ 下野国の喜連川藩、5千石だが、10万石格の大名なのかなぁ?知行ではなく、徳川家の客分。御三卿みたいなもんか。

# 喜連川藩(きつれがわはん)

・ 塩谷郡喜連川に居所を構え、同地周辺を領有していた外様藩。万石以下であったが、10万石の格式を与えられており、大名として扱われた。【角川日本地名大辞典】

# わずか五千石 ちいさな大大名の遣り繰り算段 主婦の友新書より

・ 四品(しほん) 従四位下。諸大夫 従五位下。
 四品のほとんどは国主格で、51家。10万石以下は、美濃高須3万石、伊予西条3万石、上野吉井1万石、石見浜田6万1千石、陸奥守山2万石、播磨明石8万石、下野喜連川5千石。

・ 足利幕府の故実を徳川幕府に生かそうとした、徳川家康は、関ヶ原の戦いの後に京の東山に隠れ住んでいた細川幽斎のもとに永井直勝を学びにいかせ、「室町家式」三巻をまとめさせた。永井直勝の末裔が永井荷風。

・ 水戸家から19歳の徳川昭縄が喜連川に1860年5月婿養子に来て、十二代の喜連川縄氏となった。昭縄の幼名は余一麿といった、これは徳川斉昭の十一男だったことによる。斉昭の子は、長男の慶篤は別として、次男以降は次郎麿、三郎麿、四郎麿と番号制で名づけた。七郎麿が後の徳川慶喜。【参考:那須与一は長男か?

# 喜連川の風 稲葉稔 角川文庫

・ これは、小説ではあるが、ナカナカ実態が把握できない5千石の大名の喜連川藩や、参勤交代を初めとする、この時代の世相が垣間見られる面白い一冊である。特に参勤交代において、仙台藩天童藩が喜連川宿で同日にダブルブッキングしたときの対応などは非常に面白く、またそれを処理するために主人公の天野一角が奥州街道から羽州街道を天童までいく下りなどは、風景が目に浮かぶようである。  


【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。

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