喜連川家
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■ 喜連川家(きつれがわけ): 「喜連川」の名字の由来

・ 喜連川藩

・ 喜連川家(足利家

・ 天正18年(1590年)に、古河公方家に男子がいなかったため、古河公方家の氏女(うじじょ・氏姫)と、下総国小弓城の小弓公方の国朝(くにとも)が結婚し、古河公方を継いだ。文禄の役で国朝も2000〜3000騎を率いて出陣したが、途中足利家に心を寄せる武将など十数万騎にふくれあがったが、安芸国梅田(広島県海田町)で病死した。国朝の人望を恐れた秀吉によって毒殺されたという。氏女は国朝の死後に国朝の弟の頼氏と結婚し頼氏が跡を嗣いだ。そのときに喜連川に所領を与えられ、喜連川氏を称した。明治維新後に足利氏に復姓。

・ 足利将軍家は断絶したため、徳川幕府では喜連川家を足利家の祭祀を営む正当な家系と認めた。

・ 喜連川家の特権: 軍役を含めた諸役後免、国役金(くにやくきん)の免除。

・ 14代尊信(たかのぶ)は、狂気をもって家臣に幽閉されたが、家臣が処分されて復帰した。

・ 足利浩平: 昭和26年生まれ、武蔵野美術大学卒業で会社代表。足利尊氏の三男の基氏の流れの鎌倉公方(古河公方)の喜連川家の末裔で第27代当主。第26代当主の惇氏(あつうじ)の弟の宣麿(のぶまろ)の長男。

【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】

・ 家系的には足利家の流れだが、血統としては、たしか江戸時代半ばに伊予国大洲藩加藤家から養子を迎えたため、途切れたようだ。その後、足利家の庶流で、喜連川家と姻戚関係のある肥後国の熊本藩から養子を迎えたが、上手くいかずに、後に水戸家の徳川斉昭の子を養子に迎えたようだ。

・ 明治時代には、足利姓に復姓。 

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