出典:わずか五千石 ちいさな大大名の遣り繰り算段
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■ わずか五千石 ちいさな大大名の遣り繰り算段 主婦の友新書より

# 四品(しほん) 従四位下。諸大夫 従五位下。
 四品のほとんどは国主格で、51家。10万石以下は、美濃高須3万石、伊予西条3万石、上野吉井1万石、石見浜田6万1千石、陸奥守山2万石、播磨明石8万石、下野喜連川5千石。

# 足利幕府の故実を徳川幕府に生かそうとした、徳川家康は、関ヶ原の戦いの後に京の東山に隠れ住んでいた細川幽斎のもとに永井直勝を学びにいかせ、「室町家式」三巻をまとめさせた。永井直勝の末裔が永井荷風。

# 水戸家から19歳の徳川昭縄が喜連川に1860年5月婿養子に来て、十二代の喜連川縄氏となった。昭縄の幼名は余一麿といった、これは徳川斉昭の十一男だったことによる。斉昭の子は、長男の慶篤は別として、次男以降は次郎麿、三郎麿、四郎麿と番号制で名づけた。七郎麿が後の徳川慶喜。【参考:那須与一は長男か?

# 1616年に家康が隠居して駿府城で死去した時の遺産は、金銀合わせて194万8721両。その他、白絹、麝香、人参、沈香、砂糖、葡萄酒、石鹸など、約200両分をため込んでいたが、これらは子供達で分け合った。

# 1605年に家康が秀忠に将軍職を譲った時には、江戸城に420万両あった。秀忠は18年間の在位中に40万両を消費した。

# 三代将軍家光は、日光東照宮の建立に60万両を使い、日光参詣を行ったり、30万人の供を連れての上洛を3回も行うなど、盛大に消費したが四代家綱には相当な財産を残した。

# 四代家綱以降は、天領の鉱山からの金銀の産出量が減少し、また鎖国により貿易収入も減少し、収入源は年貢だけとなっていく。天領は800万石だが、幕臣の知行などを除くと約400万石で、そこから俸禄給の支払いや役料、将軍や大奥の固定費を除くと、政治に仕える予算は13万8000両だった。

# 家綱の時代にはまだ家康の遺産は残っていたが、家綱の死後、家綱の葬儀や綱吉の将軍即位のために完全に使い切った。

# 将軍の日光参拝には約10万人の供が必要で、約20万両の費用がかかる。

# 六代家宣のころには年貢率は急速に減少し、3割から3割4分になった。そのころの幕府の年間収入は170万両〜180万両ぐらいで江戸時代初期の約半分まで減少した。

# 吉宗の享保の改革: 年貢率の向上。吉宗の晩年には3割8分9厘まで上昇した。また新田開発の効果で463万石まで増加した。その結果吉宗は就任時には空だった江戸城の御金蔵に100万両以上を残して世を去った。そのかわり農民一揆が頻発した。

# 1730年の歳入は79万両、歳出は73万1千両。

# 十代家治の時代の幕府の収支はとんとんで、300万両の余剰金があった。

# 幕末の1863年の歳入は1051万6千両、歳出は1061万4000両。

# 生麦事件の賠償金を幕府は長州に肩代わり。その学は24万1332両。薩摩も6万333両支払った。 

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