天童藩
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 藩のTop
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 天童藩(山形県天童市)

・ 「天童」の地名

・ 織田家2万石・外様・陣屋。

・ 織田信長の次男の信雄系。1767年に出羽国高畠に転じ、1831年に天童に転じた。

・ 出羽国天童藩2万石は織田信雄の家系で、小藩ではあるが江戸城内での席次や官位などの格式は大藩なみだったという。そのため、小藩であるが出費がかさんで、財政状態は厳しかった。そんななか、江戸家老の吉田専左衛門が独特な金策を行ったという。専左衛門は文人派で蜀山人の弟子の鹿都部真顔(しかつべのまがお)の門弟となって狂歌をよんだ。その後、専左衛門は狂歌を通じて、浮世絵師の安藤広重と親しくなり、広重に肉筆画を描いてもらい、国元に送って藩内の豪商などに買い取らせたという。【江戸300藩の意外な「その後」 日本博学倶楽部 PHP研究所】

※ 山形県天童市には「広重美術館」があり、そこにある作品は「天童広重」と言われ、そのような経緯で天童に集まったものでしょう。

・ 天童藩は戊辰戦争では、当初は官軍派についたが、庄内藩などから攻められ、同盟側への参加を余儀なくされた。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】

# 天童藩(てんどうはん)
・ 天保元年までは高畠藩と称した。外様・小藩。藩庁・居城は、はじめ置賜(おきたま)郡高畠、天保元年からは村山郡天童。藩主織田氏は、織田信長の次男信雄の子孫。信雄の次男信良は父の所領のうち上野国(現群馬県)の2万石を領し、甘楽(かんら)郡小幡(現群馬県甘楽郡甘楽町)に住し、小幡藩をたてたが、明和4年8月山県大弐らの明和事件に関連して処置の不当をとがめられ、藩主信邦は蟄居を命じられた。養子信浮(のぶちか)(織田信栄の五男)は2万石の相続を許され高畠へ転封された。【出典

# 天童藩(てんどうはん): 出羽国。天童陣屋。織田家。外様大名。2万石。天保元年に立藩。控間:柳間格:無城位階:従五位下。上屋敷:千代田区丸の内。高畠藩主の織田信美が、藩領の一歩を幕府に上知されたため、天保元年に幕府から天童への藩庁移転が許可され、天童藩2万石を立てた。【出典

# 天童藩士: 


【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。

統計表示