足利義政
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■ 足利義政(あしかがよしまさ)【出典】: 「足利」の名字の由来

# 1436−1490年。享年55歳(病死)。

# 出身地: 京

# 肩書き: 室町幕府の八代将軍。

# 家族: 父:足利義教、子:足利義尚

# 足利義政は六代将軍の義教の三男。兄の義勝がいたために将軍になるはずではなかった。しかし、九歳の義勝が七代将軍になってから八ヶ月後に夭逝したため、八代将軍職は八歳の義政に舞い込んだ。元服した義政は足利義満を倣った政治を始めようと意欲をみせたが、正室の日野富子の実家の日野家や、有力守護大名や、乳母の今参局(いままいりのつぼね)などの介入で、政治の主導権をとることは困難であった。義政はいつしか政治への関心をまったく失っていた。享徳の徳政一揆(1454年)、長禄の土一揆(1457年)、長禄・寛正の大飢饉(1459〜1461年)など、社会を揺るがす事件がおきても、足利義政は対応できなかった。また、幕府の内部でも、統制できる人材がいなかったため、有力守護大名どおしの勢力争いが蔓延した。そして、29歳になった義政と25歳の日野富子との間に男子がいなかったため、義政は僧籍にあった弟の義視(よしみ)を還俗させて後継者とし、管領細川勝元を後見人とした。しかし、翌年に富子は義尚(よしひさ)を出産。義尚を将軍にしたい富子は山名宗全に後見を頼んだため、将軍の後継争いが勃発した。この争いは、数年にわたって家督争いを続けていた管領家の畠山政長と畠山義就(よしなり)を巻き込んで、1467年に応仁の乱が勃発した。戦乱は長引いて、1473年に山名宗全と細川勝元があいついで死去すると、義政は将軍職を九歳の義尚に譲って、御所からはなれた別邸に隠居し、政務は日野富子が取り仕切るようになった。11年続いた戦乱が終結したときに、京は焼け野原となった。富子と義尚が別邸を訪れると、義政はさらに一人で東山の山荘に転じた。1485年には義政の側近と義尚の側近が対立した。義政は義尚と対立することが深まるのを懸念して出家した。このころ、足利義満に倣って京の東山に銀閣の建設を始めていたが、病気がちになって、銀閣の完成を前に死去した。


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