「は」行の人々
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 歴史的人物のTop
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 荻原重秀(おぎわらしげひで): 1658−1713年。勘定所の下役から勘定奉行になった。幕府の財政難の打開のため、初の貨幣改鋳を行った。金銀の含有率を落とした元禄金銀を発行。それによって財政の立て直しをはかったが、物価が高騰した。その結果、新井白石から追求されて罷免された。【出典

■ 羽柴秀勝(はしばひでかつ): 1568−1585年。織田信長の四男で、羽柴秀吉が長浜城主だったときに養子となった。信長の実子ということで、山崎の戦いでは弔い合戦の旗印になって、信長の葬儀の喪主をつとめた。【出典

■ 橋本左内(はしもとさない): 1834−1859。福井藩士。大坂に出て、緒方洪庵の適塾で蘭方医学と蘭学を学んだ。江戸遊学時には西郷隆盛との交友も深めた。その後、藩主の松平慶永に重用されて、藩政改革を補佐した。安政の大獄で死刑になった。【出典

■ 畠山重忠(はたけやましげさだ): 1164−1205年。有力御家人源頼朝に従って、戦場で先陣を切って活躍し、「坂東武士の鑑」と称された。源頼朝の死後、北条時政に謀反を疑われて、義時の軍勢に敗れ、一族と共に滅亡した。【出典

■ 畠山義総(はたけやまよしふさ): 1491−1545年。能登国守護戦国大名。七尾城を築いた。一向一揆を鎮圧して、北陸各地の権力者と結んで地域の安定を図った。【出典

■ 服部半蔵(はっとりはんぞう): 1542−1596年。実名は服部正成(まさなり)。通称は服部半蔵で忍者として知られるが、実際は武将であり、伊賀忍者を統率する役目であった。本能寺の変の後に、徳川家康が堺から三河国に逃れるために伊賀越えをした際に、先導役を務めた。【出典
・ 服部半蔵正成は1590年の徳川家康の関東入国時に伊賀忍者200人をつれて江戸入りし、半蔵門外に屋敷を構えた。そして、伊賀同心頭として旗本8千石。

■ 馬場信春(ばばのぶはる): 1515?ー1575年。甲斐国武田家の家臣。教来石家の出で、武田信虎の時代から武田家に仕えた。武田信玄の代に、馬場家の名跡を継いだ。信玄の死後は、山県昌景とともに武田家を支えたが、長篠の戦いで武田勝頼の退却を助けて討ち死にした。【出典

■ 林羅山(はやしらざん): 1587−1657年。最初は京の建仁寺で仏教を学び、藤原惺窩に師事して朱子学を学んだ。惺窩の推挙により徳川家康に仕え、以後は四代の侍講(将軍の講師)を努めて、幕政にも参加した。【出典

■ 原田宗輔(はらだむねすけ): 1619−1671年。仙台藩の重臣。通称は原田甲斐。伊達騒動の当事者として有名。5歳で家督を継いで、原田家を継いだ。伊達家三代の伊達綱宗が放蕩によって隠居させられて、2歳の伊達綱村が伊達家を継ぐと、伊達宗勝が後見になって、原田宗輔は宗勝について実権を握った。しかし、伊達家の同門の伊達宗重は、所領紛争の処分などをめぐって宗勝の専横を幕府に訴えた。宗勝たちは、大老の酒井忠清の屋敷で評定をうけた。宗輔は忠清の屋敷に来た宗重を斬殺、宗輔自身も他の奉行に斬られて死亡した。原田家の男子は全員切腹して断絶。宗勝は改易になったが、藩主の綱村は幼少のためおとがめ無しだった。【出典

■ 稗田阿礼(ひえだのあれ): 654?ー?年。天武天皇舎人。記憶力にすぐれ、天皇の歴史である「帝紀(ていき)」、神話などを含む「旧辞(きゅうじ)」の誦習を命じられた。太安万侶が筆録し「古事記」が完成した。【出典

■ 比企能員(ひきよしかず): ?ー1203年。鎌倉幕府御家人源頼朝からの信頼が厚かった側近で、十三人の合議制に列したひとり。娘が源頼家の子を生んで、外戚として権力を持ったが、北条時政の謀略によって滅亡した。【出典

■ 日野資朝(ひのすけとも): 1290−1332年。公家後醍醐天皇の側近。後醍醐天皇、日野俊基とともに討幕を計画したが、六波羅探題に露見し、佐渡に配流(正中の変)された。元弘の変の際に、佐渡で殺された。【出典

■ 日野富子(ひのとみこ): 1440−1496年。足利義政の正室。息子の義尚を将軍にしようと、山名宗全を後見につけた。応仁の乱の最中に、大名に高利で金を貸して、莫大な資産をつくった。山名氏の没後には自ら九歳の将軍義尚の後見になったが、やがて義尚は富子のもとを去った。その後も、義視やその子の義稙(よしたね)と、後継者争いを死ぬ間際まで続けた。【出典

■ 平手政秀(ひらてまさひで): 1492−1553年。織田信秀の家臣。織田信長の守り役になって、うつけ者と言われた信長を補佐した。信秀の死後、自害したが信長をいさめるためという。信長は政秀の菩提を弔うために政秀寺を建立した。【出典

■ 藤田東湖(ふじたとうこ): 1806−1855年。常陸国の水戸城下に生まれた。父親は水戸学者の藤田幽谷で、水戸学藤田派を継いだ。水戸藩主の徳川斉昭の腹心として藩政改革を行い、藩校の弘道館を設立。東湖の水戸学思想は、尊皇派志士に影響を与えたが、安政の大地震で母を助けて圧死した。【出典

■ 二葉亭四迷(ふたばていしめい): 1864−1909年。坪内逍遙と交流を持ち、写実主義小説「浮雲」を言文一致体で執筆。近代小説の先駆者になった。【出典
・ 本名は長谷川辰之助。坪内逍遙に刺激されて、小説の浮雲を書いたが、自信が無く、かつお金が欲しいために坪内の本名(雄蔵)名義で発表したことを恥じて、自分自身をののしった言葉の「くたばってしまえ」をもじった。【出典

■ 古田重勝(ふるたしげかつ): 1560−1606年。美濃国の出で、豊臣秀吉の古くからの家臣。古田重則の長男で、秀吉のもとで小田原攻めなどに活躍して、近江国日野を領した。伊勢国松坂藩の初代藩主で、関ヶ原の合戦では東軍に属し、松坂城を鍋島勝茂から守って、西軍を引き留めた功で5万5000石に加増された。【出典
# 「参考

■ 文屋康秀(ぶんやのやすひで): 歌人。六歌仙・三十六歌仙の一人。官人としては卑官のままだった。【出典

■ 文屋綿麻呂(ぶんやのわたまろ): 765−823年。征夷将軍で公家薬子の変では、はじめは上皇方に与して捕らえられたが、坂上田村麻呂の嘆願によって助命された。その後、征夷将軍になって、蝦夷征討を命じられた。徳丹城を築いて平定に成功した。【出典

■ 別所長治(べっしょながはる): 1558ー1580年。織田信長に仕えたが、反逆した。毛利氏の協力を得て、一時は羽柴秀吉の率いる織田軍を制したが、2年の籠城を経て自害した。【出典

■ 遍昭(へんじょう): 816−890年。歌人で天台宗の僧。桓武天皇の孫。仁明天皇の死を悲しんで出家した。六歌仙・三十六歌仙の一人。【出典

■ 堀秀治(ほりひではる): 1576ー1606年。堀秀政の長男。天正18年(1590年)の豊臣秀吉小田原攻めに父とともに参陣。陣中で父の秀政が病死したため家督を継いだ。伏見城の普請工事などで有名。関ヶ原の合戦では東軍に属した。【出典

■ 堀秀政(ほりひでまさ): 1553−1590年。13歳で織田信長の小姓になった。信長の側近としてつとめ、雑賀攻めや有岡城攻めで功を成した。本能寺の変ののちには羽柴秀吉に仕えたが、小田原攻めの際に陣中で病死した。【出典

■ 本間精一郎(ほんませいいちろう): 1834−1862年。越後国出身の勤王志士。京都や江戸で学び、尊皇攘夷を掲げ、江戸で清河八郎らと交流をもった。薩摩藩や土佐藩で倒幕の仲間を募ったが、やがて疎まれて、同志に殺害された。【出典


Help】 「苗字」「階位」「幼名」「通称」「諱」「尊称」「号」「氏」「姓」などはこちらをご覧ください。   

統計表示