北条早雲
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■ 北条早雲(ほうじょうそううん)【出典】: 「北条」の名字の由来

・ 1432ー1519年。享年88歳(病死)。

・ 出身地: 備中国(岡山県)

・ 肩書き: 武将

・ 家族: 父:伊勢盛定

・ 家紋: 北条鱗紋

・ 戦国時代は、北条早雲が足利茶々丸を襲って伊豆国を一夜で乗っ取った1493年に始まるという。室町幕府で要職を務めていた早雲は、駿河国今川氏に嫁入りしていた妹から、今川家の内紛の解決を頼まれた。1487年に、駿河国に下向して紛争を解決した早雲は、興国寺城の城主になった。当時、伊豆国には鎌倉公方の足利政知がいた。しかし、政知の死後、後継者と見られていた潤童子が兄の茶々丸に殺害され、混乱が生じた。早雲はそれを知ると、わずかな兵をまとめただけで伊豆に急襲し伊豆国を支配した。その後、韮山に城を築いて、さらに相模国を狙った。早雲は小田原城主の大森藤頼に接近して藤頼を計略にかけて小田原城を乗っ取った。さらに、東に進出して、三浦道寸を攻め、1516年に道寸を滅ぼした。相模国を征した早雲は、検地を行って、貫高制(かんだかせい・収穫量を貨幣量で示す税制)を使用した。年貢を五公五民から四公六民にして、農民の負担を軽減したという。さらに、分国法(戦国大名が制定した法律)の原形となる家法の「早雲寺殿廿一箇条(そううんじどのにじゅういっかじょう)」を定めたという。


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