松平信綱
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 歴史的人物のTop
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 松平信綱(まつだいらのぶつな): 1596−1662年。徳川家康の家臣の大河内久綱の長男。徳川秀忠、・徳川家光に仕え、老中になった。島原の乱討伐の総大将の板倉重昌が討ち死にしたため、信綱が引き継いだ。激しい抵抗にあったものの、原城を陥落させ、天草四郎の首をさらし首にした。その後、キリシタンの取り締まりの強化、ポルトガル人の追放を行い、海外との行き来を制限した。【出典

■ 松平信綱(まつだいらのぶつな): 知恵伊豆とも言われた。信綱は1596年に代官の大河内久綱の長男として生まれた。6歳で父の弟で長沢松平家に養子に入った松平正綱の養子となった。また9歳の時に生まれたばかりの徳川家光小姓となった。徳川家光が将軍になった1623年に従五位伊豆守に任ぜられた。1633年には老中になった。1638年に天草・島原の一揆を鎮圧し、川越6万石を与えられた。 

# 松平伊豆守: 振袖火事のおり、大奥から西の丸に逃げる奥女中に畳を裏返しにして目印とした。これって実話か?

# 松平信綱の父の正綱は、竹千代が三代将軍になった1625年に相模国玉縄で2万2100石の大名になった。正綱は、日光杉並木の植樹を24年間にわたって続けた。【知恵伊豆と呼ばれた男 老中松平信綱の生涯 中村彰彦 講談社文庫】

# 大河内(松平)家の家紋: 「三つ蝶紋」から「三つ扇紋」へ変わった。【知恵伊豆と呼ばれた男 老中松平信綱の生涯 中村彰彦 講談社文庫】

・ 大河内家の家紋は、「浮線綾」ともいわれる「三つ蝶(丸に三つ蝶の内十六葉菊)」の紋であった。

・ 「三つ扇紋」は、まだ長四郎と称していた松平信綱が使いはじめた。その由来については、まことに知恵伊豆にふさわしい話が伝えられている。日光東照宮の造営に際して、三代家光(竹千代)が、あるとき神前に架けるべき「反橋」(太鼓橋)の曲線(勾配)をみずから決定しようと思いついた。だが、参拝者がわたりやすいよう勾配をゆるやかにすると見映えがしなくなる。かといって勾配をきつくすると、人がわたりにくくなってしまう。どうすべきかわからなくなって竹千代が途方に暮れていると聞きつけたのが、長四郎(信綱)であった。まかり出た長四郎は、いつも腰帯に差している扇を抜き取り、少しずっひらきながら言った。「扇を三つ合わせると、ひとつの丸ができあがります。この反り加減ではいかがでしょうか。あるいはこれくらいでは。すると竹千代は、ある程度まで扇がひらかれたとたんに言った。「そのくらいがよい」。こうしてたちどころに勾配を決定することができて竹千代は大いに満足し、奉行たちもほっとした。次の間に控えていた者たちも、長四郎の発想に感じ入った。ただし『事語継志録』は、竹千代が勾配を決めた橋は日光東照宮のそれではなく、江戸城二の丸の廊下橋、あるいは本丸と西の丸の間にある堀に架かる橋を造りなおした際の話だったかも知れない、としている。そこで私は、著作も多い日光東照宮の禰宜高藤晴俊氏に電話し、今の東照宮に家光が勾配を決めたといういわれのある橋はないかどうかおたずねしてみた。すると、高藤氏は答えた。「その話は、初耳です。東照宮の橋といえば神橋ですが、これは寛永十三年に建造されたものですから時期的に合いません。それ以前にはもっと古い構造の橋があったのでしょうがどうも該当するものは思いあたりません」。しかし、だからといってこのエピソードはただの伝説ではない。竹千代は長四郎の助言に気をよくし、その日のうちにかれに五百石を加増した、という話がこれとセットになって伝わっているのである。

・ ところが、埼玉県新座市野火止の平林寺にある松平家の墓所を訪ね、古い順に墓碑を見てゆくと、あるときから「三つ蝶紋」が「三つ扇紋」に変化したことがわかる。

・ 長四郎(信綱)が、それまでの「三つ蝶紋」を「三つ扇紋」に改めたのは、あらたに五百石を受けたのを記念してのことにほかならない。扇を少しずつひらいてゆくことによって竹千代にあらたに架けるべき橋の勾配を決定させ、その報賞として知行五百石を得たことは、当時二十五歳の長四郎にとってはかつてない大きな出来事だったのである。

# 長四郎(信綱)の室: 「寛政重修諸家譜」によると、信綱の正室は「井上主計頭正就が女」とある。 【知恵伊豆と呼ばれた男 老中松平信綱の生涯 中村彰彦 講談社文庫】 


Help】 「苗字」「階位」「幼名」「通称」「諱」「尊称」「号」「氏」「姓」などはこちらをご覧ください。   

統計表示