深溝松平家
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■ 深溝松平家(ふこうずまつだいらけ): 松平家 

# 代表家紋: 重ね扇紋

# 深溝松平家は五井松平家庶流三河国額田郡深溝(愛知県額田郡幸田町深溝)に分知されたことによる。

# 深溝松平家は歴代の当主が合戦で戦死し、家康の松平家にとっては家臣のように扱われていた。六代忠利は1601年に三河国深溝に転じた後に、三河国吉田藩3万石を賜った。子孫は三河国刈谷藩丹波国福知山藩などを経て肥前国島原藩7万石。

# 深溝松平家(肥前国島原藩):  三河国深溝をルーツとする。松平家忠は、徳川家康に仕え、家康の関東入国後には武蔵国の忍1万石。その後、下総国上代(かじろ)から下総国小見川に転じた。二代忠利は関ヶ原の戦後に、三河国深溝藩1万石から三河国吉田藩3万石。三代忠房は三河国刈谷藩から丹波国福知山藩、そして肥前国島原藩へ。幕末には新政府軍に恭順し、明治時代には子爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

# 深溝(ふこうず)松平: 松平信光の七男の忠景の二男の忠定が三河国額田郡深溝(愛知県額田郡幸田町)に住んだのに始まる。松平家忠(武蔵国忍1万石)は関ヶ原の戦いの前哨戦で鳥居元忠などと一緒に伏見城で討ち死にをした。家忠の子の忠利は深溝、吉田、刈谷、福知山、島原、宇都宮と転じ、1774年に再度島原7万石へ。

# 深溝家: 五井松平家の忠景の二男の忠定が三河国額田郡の深溝城(愛知県額田郡幸田町深溝)の城主の大場主膳を討って深溝城に住んだのを祖とする。徳川家康に仕え、家康の関東入国に際して武蔵国忍1万石を領す。江戸時代には各地を転々とし、島原7万石。【出典

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