形原松平家
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■ 形原松平家(かたのはらまつだいらけ): 松平家 

# 「形原」の名字の由来

# 信光の四男の佐渡守与副が三河国額田郡山中で七百貫文、のちに七百五十貫文で形原に転じたことに始まる。形原松平家は西郷松平家庶流といわれる。六代の紀伊守家信は1590年の家康の関東入国で、上総国五井5千石、1618年に1万石。その後、摂津国高槻藩2万石、下総国佐倉藩4万石。子孫は、摂津国の高槻藩、丹波国篠山藩を経て丹波国の亀山藩5万石。

# 形原松平家(丹波国亀山藩):  三河国形原をルーツとする。初代の家信は酒井忠次の配下として徳川家に仕えた。小田原の陣の後、上総国五井5千石。元和4年に三河国形原1万石。その後、摂津国高槻藩2万石、下総国佐倉藩4万石、丹波篠山藩5万石。六代信岑は丹波国亀山藩5万石。明治時代には子爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

# 大老の井伊直弼の正室は丹波国亀山藩形原松平家の出。信光の四男の与副を祖とし、三河国宝飯郡形原(愛知県蒲郡市)を本拠地とした。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】

# 形原松平: 幕末の大老井伊直弼の正室は丹波国亀山の形原松平家から来ている。松平信光の四男の与副の子孫で三河国宝飯郡形原(愛知県蒲郡市)に由来する。松平家信は家康の関東入国後に下総国五井、大阪の陣の後には三河国形原1万石を領した。その後、高槻、佐倉を経て高槻5万石。後に丹波国亀山に移った。幕末の老中の松平信義は生麦事件の処理などを行った。

# 形原家: 松平信光の四男の与副を祖とする。三河国宝飯郡形原(愛知県蒲郡市形原町)に住み今川家に仕えていた。後に徳川家康に仕え、家康の関東入国では家信が上総国市原郡五井(千葉県市原市)で5千石を領す。関ヶ原の戦いの後には三河国形原5千石を経て、後に1万石の大名となった。以後各地を転々とし、丹波国亀山藩主。【出典

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