井伊家の人々 | |
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■ 井伊家の人々: 「井伊」の名字の由来
■ 井伊直弼(諱)
・ 1815年〜1860年
・ 幼名: 鉄之介・鉄三郎
・ 渾名: 茶歌鼓(ちゃかぼん)・井伊の赤鬼。
・ 号: 柳王舎
・ 階位: 正四位上
・ お茶の世界の「一期一会」を広めたのは「茶湯一会集」という書物で、これを書いたのが井伊直弼。
・ 1860年3月3日、井伊直弼の行列(約60名)は、水戸浪士17人と薩摩藩士1人の襲撃を受けて討ち取られた。「桜田門外の変」。直弼は、1815年に彦根藩35万石の井伊直中の十四男として生まれた。
・ 井伊直弼の母親は江戸隼町の商人伊勢屋の娘。【「系図」を知ると日本史の謎が解ける 八幡和郎 青春出版社】
・ 1858年に井伊直弼は大老になったが、信濃国上田藩主で老中の松平忠固が、自分の意のままにできるロボットとして選んだ。しかし、目論見は外れた。【「系図」を知ると日本史の謎が解ける 八幡和郎 青春出版社】
# 井伊直弼(いいなおすけ)【出典】
・ 1815−1860年。享年46歳(暗殺)。
・ 出身地: 近江国。
・ 肩書き: 彦根藩主、大老。
・ 家紋: 井伊橘紋。
・ 近江国の彦根藩主の十四男として生まれた。聡明な井伊直弼は、10〜20歳代のときには儒学や国学、書、絵画、茶道などを幅広く学んだ。直弼が32歳の時に、藩主であった兄の直亮の嫡子が早世したため、直弼は直亮の養子となって家督をついで、36歳で十五代藩主になった。藩政改革を進めたほか、幕府内でも開国を唱えて、攘夷派の徳川斉昭と対立した。1858年に大老となり、直弼は孝明天皇の勅許がえられないまま、日米修好通商条約を結び、徳川家茂を十四代将軍とした。これらを独断専行とみた孝明天皇や攘夷派は直弼の引退を主張した。その結果、100人以上を処罰した安政の大獄がおこり、攘夷運動は討幕運動になって、直弼は桜田門外の変で暗殺された。
■ 井伊直孝: 母親は印具家の出。
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