会津藩
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■ 会津藩(福島県会津若松市)

・ 「会津若松」の地名

・ 松平家28万石・家門。

・ 松平肥後守

・ 三代将軍徳川家光の異母兄弟の保科正之を祖とする。

# 享保3年(1718年)の会津藩内の人口は 約169,217人。【保科正之 徳川将軍家を支えた会津藩主 中村彰彦 中公文庫】

# 二代将軍徳川秀忠老中だった土井利勝曰く、「天下の三人の名家老、尾張の成瀬隼人、紀州の安藤帯刀、会津の田中三郎兵衛。中でも田中は、その優なるものであろう。」【保科正之 徳川将軍家を支えた会津藩主 中村彰彦 中公文庫】

# 戊辰戦争後に、会津藩は20万石から13万石に減知のうえ白石に転封と決まったが、東中務の努力により転封は免れた。【名家老列伝 組織を動かした男たち 童門冬二 PHP文庫】

# 会津藩は明治維新後に斗南藩3万石をへて、廃藩置県後に北海道に渡り、琴似(札幌市)に入植したものも多い。【お殿様は「今」 加藤明 洋泉社】

# 保科家では、高遠以来の家来を総称して「高遠以来」と呼び、入れ替わりに山形から高遠に減封された前山形藩主の鳥居左京亮の家臣からの新採の家来を総称して「左京衆」と言った。

# 陸奥国。会津若松城。松平家。親藩。23万石。天正18年(1590年)に立藩。控間:溜間位階:正四位下。上屋敷:千代田区皇居外苑。会津地方は、戦国時代まで芦名氏の領国であったが、伊達政宗に滅ぼされた。天正18年(1590年)に、豊臣秀吉の側近であった蒲生氏郷が入封して立藩した。その後、越後国から120万石で上杉景勝が、そして関ヶ原の合戦の後には60万石で再度蒲生氏が、40万石で加藤嘉明が入封し、加藤家がお家騒動が原因で改易となって、保科正之出羽国山形藩20万石から23万石で入封した。保科正之は三代将軍の徳川家光の異母弟で、保科家松平姓を賜った。戊辰戦争の敗戦で陸奥国の斗南藩3万石に転封となった。【出典

■ 会津松平家 【お殿様は「今」 加藤明 洋泉社】

・ 会津松平家十四代当主: 松平保久(もりひさ・昭和29年生)

・ 学習院大学法学部卒。日本放送協会を経て、NHKエンタープライズ勤務。

・ 2008年2月26日放送のTBSの「歴史王グランプリ2008 まさか!の日本史雑学クイズ100連発!」で、「天守閣の美しさで有名な福島県にある会津若松城、明治元年の戊辰戦争の際、城の中に籠城していた旧幕府たちが城を逃げ出したとんでもない理由とは、いったいなんでしょう」という設問が出た。その答えは、「糞尿が城にたまり、その不衛生さから。」こりゃ、市民が怒るのも無理ないなぁ。

・ 会津若松城の籠城戦は1868年8月23日に始まった。土佐藩を先頭に、大垣藩長州藩大村藩佐土原藩薩摩藩をはじめ、25日には尾張藩、紀州藩、肥前藩など計34藩約3万人の攻撃。9月14日には新政府軍の総攻撃が始まり9月22日に降伏。落城時の籠城人数は4956人。うち兵員は、重臣参謀クラスが160人、士分が764人、士分以下が1609人。婦女子は570人、幼老575人、病人284人。その他、奥女中や下女などもいた。鳥羽・伏見の戦い以来、戊辰戦争における会津藩の死者は2977人、自刃した婦女子は233人。降伏後の埋葬も禁じられた。

・ 当時の会津若松市長は「菅家」さん。市長の抗議にTBSは全面的に謝罪したが、「単発番組のため難しい」と、謝罪放送はなされなかった。そんなの理由にならないんじゃないか。しかし、4月8日の12:57に「会津若松市民、並びに関係者の方々に著しく不快感を与えてしまいました。」という謝罪放送が流れたという。

・ これに対して、NHK勤務だった会津松平家十四代当主の松平保久(もりひさ・昭和29年生)は、「番組の意図はわからなくもない。歴史をわかりやすく、おもしろおかしいクイズ番組にすること自体、別に否定するつもりはない。だが、あの出題はあまりにも興味本位に史実を歪曲しすぎている。糞尿が理由で若松城から逃げ出したとは!これこそ、とんでもない。容保の末裔として、祖先の名誉が著しく傷つけられたと感じ、不快感を覚えた。TBSテレビに直接乗り込んで抗議しようかとも考えたが、思いとどまった。」とある。

・ 昭和61年、長州藩のあった山口県萩市から、「そろそろ和解を」と友好都市の提携が持ちかけられたが、「時期尚早」との反対の声が高く、提携に前向きだった会津若松市長が次の選挙で落選した。

# 会津藩士: 安部井家 ・ 飯島家 ・ 井口家 ・ 池内家 ・ 伊南家 ・ 井深家 ・ 今泉家 ・ 伊予田家 ・ 加賀山家 ・ 萱野家 ・ 北原家 ・ 君家 ・ 黒河内家 ・ 西郷家 ・ 佐川家 ・ 佐瀬家 ・ 塩田家 ・ 柴家 ・ 神保家 ・ 諏訪家 ・ 辰野家 ・ 田中家 ・ 出羽家 ・ 内藤家 ・ 沼沢家 ・ 原田家 ・ 一柳家 ・ 山川家 ・ 湯田家

■ 会津藩
・ 表高28万石、実高40万石。
・ 人口(享保元年): 168179人
・ 家臣団(寛文4年): 知行取589人、石切符496人、高掛りの者1922人、金切符の者30人、扶持方52人。合計3089人。
【歴史人 2018.08.No92 江戸三百藩「仕事と暮らし」】

■ 加藤明成(かとうあきなり): 会津藩主。加藤明成は、文禄元年(1592年)の生まれで、40歳の時に家督を継いだ。異常な振る舞いが多く、財をむさぼり、領民を虐げた。手元にある金銀をすべて「一歩(分)金」に替えなければ気がすまない。「一歩金殿」と笑われた。家老の堀主水がいさめても「偉そうに言うな。主従の別をわきまえよ。」と言い放った。また、明成は主水の家老職を罷免し、さらに主水を攻め続けて惨殺した。しまいには「病のため藩政をみることができない」と40万石を投げ出した。【出典


【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。

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