保科正之
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■ 保科正之(諱)

# 「保科」の名字の由来

・ 1611年〜1673年
・ 神号: 土津霊神(はにつれいじん)
・ 幼名: 幸松
・ 階位・通称: 肥後守、正四位下左近衛中将
・ 会津藩の初代藩主。

・ 幼かった四代将軍を補佐して善政をしいたとして有名。「玉川上水の掘削」。明暦の大火の後始末として回向院の建立。回向院は宗派を超えて死者の埋葬を行った。

・ 徳川秀忠の正室の「お江与の方」が、秀忠に側室をもつことを認めなかった。したがって、正之の母の志津(お静の方)が懐妊すると、尼僧の見性院(武田信玄の娘)に預けられ、生まれた子は信濃国高遠藩の保科正光に養子に出した。

・ 保科正之は、八王子に住んでいた武田信玄の娘の見性院(織田信忠の婚約者だった)に預けられた。【誰も書かなかった徳川家の謎 小泉俊一郎 中経文庫】

# 社倉: 明暦元年以来、保科正之は国許の会津に「社倉」を設置し、米の備蓄に努めた。その結果、凶作の年にもほとんど餓死者は出なかった。【保科正之 徳川将軍家を支えた会津藩主 中村彰彦 中公文庫】

# 徳川家綱時代の三大美事(保科正之が大きくかかわった)
・ 末期養子の禁止の緩和
・ 殉死の禁止
・ 大名証人制度の廃止: 幕府が諸藩の家族を人質として江戸においたこと。
【保科正之 徳川将軍家を支えた会津藩主 中村彰彦 中公文庫】

# 保科正之が高遠にいたのは、元和3年(1617年)11月から寛永13年(1636年)7月まで。つまり、7歳から26歳までの約20年間。養父の保科正光が死亡して高遠藩を継いだのは寛永8年11月。寛永13年(1636年)7月に出羽国山形20万石へ転封。【保科正之 徳川将軍家を支えた会津藩主 中村彰彦 中公文庫】

# 保科家の家臣団
・ 保科家が信州高遠3万石から出羽国山形20万石に転封される前に山形藩主だったのは鳥居家24万石で、鳥居忠恒は跡継ぎがいなかったため、領土を没収。異母弟の忠春に信州高遠3万石を与えたため、鳥居家から解雇された家臣団が多く浪人として残っていた。
・ 「家世実紀」によると、寛永13年8月に旧鳥居家の家臣として、今村(2000石)、三宅(1050石)、神保(2000石)、大熊(1200石)、中野・沼沢(1000石)の名がみえる。
・ 100石以上で召し抱えられたものは158名。
 高遠以来の家臣団としては、
・ 城代家老の保科民部: 1000石→3000石
・ 家老の田中三郎兵衛: 1000石→1500石 。寛文6年(1666年)には会津藩の大老となり、正之から藩政を任せられた。
・ 家老の北原采女と一瀬勧兵衛: 300石→1300石
・ 篠田半左衛門・小原五郎右衛門: 300石→1000石
・ 組頭の井深監物: 400石→1000石
・ 100石以上の家禄のものは83名
 山形の保科家の家臣団の構成
・ 譜代83名(34.4%)、旧鳥居家の家臣158名(65.6%)
・ 1000石以上の重臣の構成
譜代7名(53.8%)、旧鳥居家の家臣6名(46.2%)。
【保科正之 徳川将軍家を支えた会津藩主 中村彰彦 中公文庫】

# 保科正之(ほしなまさゆき): 保科正之は、江戸時代を代表とする名君と言われる。慶長16年(1611年)に、二代将軍の徳川秀忠の子として生まれた。生母は秀忠の乳母の侍女の静である。しかし、秀忠の正室が悋気だったため、正之の出生は長い間秘密とされ、7歳の時に信濃国高遠藩(長野県伊那市)主、2万5000石の保科正光の養子とされた。その後、寛永13年(1636年)7月に出羽国山形藩20万石に転封となった。その後、寛永20年に会津藩23万石に転封となった。当時、会津藩は飢饉がつづいでいたため、正之は「社倉」を設けて、安心して暮らせるようにした。10年後には備蓄米が2万3000俵となり、社倉は領内23カ所に増えた。【出典

# 保科正之の官位
・ 寛永8年(1631年): 従五位下、肥後守。
・ 寛永9年(1632年): 従四位。
・ 寛永11年(1634年): 侍従。
・ 正保2年(1645年): 少将、従四位上。
・ 承応2年(1653年): 中将、正四位下。
【保科正之 徳川将軍家を支えた会津藩主 中村彰彦 中公文庫】

# 保科正之の養父の保科正光の正室は信州上田藩真田昌幸の娘。【保科正之 徳川将軍家を支えた会津藩主 中村彰彦 中公文庫】

# 保科正之の家訓: 「婦人女子の言は、一切きくべからず」【考証 大奥 稲垣史生】

# 振袖火事の後の米価高騰に対する保科肥後守正之の策: 米価高騰を防止するため、需要と供給のバランス政策を行った。それは、米の市場への米の放出と参勤交代の時期の調整、国元に帰る大名を早めに、江戸に上る大名を4月から6月に遅めに。

# 振袖火事のさなか、蔵前の幕府の米倉に火の手がまわろうとしたが、火消しの数が足りない。そこで保科正之は、米倉の米を庶民に供出し、勝手取り放題とした。庶民は、こぞって米倉への類焼を防いだ。日本堤を庶民に固めさせたのと同じで、民の力を利用する。

# 保科正之の母親は旧北条家の家臣の神尾(かんのお)家の出。

# 保科正之の娘は、米沢藩主上杉家や、加賀藩主前田家の正室となった。

# 玉川上水を発案し、幕閣の反対を押し切って完成させたのは保科正之。明暦の大火で焼け落ちた江戸城の天守閣の再建に反対し、民政にまわした。

# 完本 保科肥後守お耳帖 中村 彰彦 著
・ この本を読むと、保科正之が山形藩主だった時代の山形城下の描写が、わずかだが見られる。白岩(寒河江)の一揆の首謀者の処刑が行われたのが長町河原。前藩主の鳥居家の時代に、馬見ヶ崎川が付け替えられたから、その直後になるか。
・ 島原の乱の責任で島原藩主松倉勝家は打ち首となったが、勝家の弟は保科家に預けられ、大手町(山形城下)に屋敷を与えられた。
・ 山形県の松倉家といえば十一屋だが、関係あるのかなぁ。

# 保科正之(ほしなまさゆき): 江戸時代の三百諸侯で、戦国時代から同じ土地にいたのは10家ほどである。転封に際しては、他国から家来を連れて引っ越しをしてくるのが普通なので、地元出身者は意外に少ない。しかし、加増転封に際しては現地で採用する場合もある。会津藩の松平家(保科家)は、信濃国の高遠藩3万石から、保科正之が二代将軍秀忠の子であることを公にして、出羽国の山形藩20万石に転じたので、山形に転封になったさいにかなりの家臣を召し抱えたが、従って前山形藩主の鳥居家の旧臣なども存在した。それに対して、山形から会津若松に転じたときは3万石の加増だったので、新規採用はほとんどいなかった。【出典
※ つまり、会津藩の武士には会津人は少なかったということですね。

# 保科正之(ほしなまさゆき)【出典
・ 1611ー1672年。享年62歳(病死)。
・ 出身地: 江戸(東京都)
・ 肩書き: 大名
・ 父: 徳川秀忠
・ 家紋: 会津三つ葵(あいづみつあおい)
・ 徳川二代将軍の乳母の侍女の静(しず)に産ませた子で、信濃国高遠藩主の保科正光の子として育った。21歳で高遠藩を継いで肥後守となって3万石を領した。その後、出羽国山形藩主を経て、陸奥国会津藩主として23万石を領した。
・ 主な施策: 武家諸法度に殉死の禁を加えた。玉川上水の開削。明暦の大火後の復興。


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