加賀藩
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■ 加賀(金沢)藩(石川県金沢市

・ 「金沢」の地名

・ 前田家102万2千石・外様

・ 前田中納言

・ 支藩: 富山藩 ・ 大聖寺藩 ・ 七日市藩

・ 加賀八家: 加賀藩の家老職前田家の古くからの家臣の奥村家とその分家、前田利家が召し抱えた横山長知と村井長頼の子孫、本多正信の次男の正重の子孫、能登の名族の長連龍の子孫、利家の長女の幸の婿の長種を祖とする前田対馬守家、前田土佐守家。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】

・ 加賀100万石の前田家の殿様の収入は約1000億円で、「前田家も、将軍家に負けず劣らず超高額所得といえます」と書いてあるが、高収入=高所得とは言えないんだよなぁ。なぜなら必要経費がかかるから。サラリーマンと違い、大名家はいわば大きな個人商店ともいえる。従って、藩士の家禄や藩の維持費などの必要経費がかかる。したがって、いくら収入が多くても必要経費がかさめば所得はマイナスにもなり得る。実際、江戸時代には多くの藩が窮乏し、商人からの借財もかさんだわけですから。【江戸の長者番付 菅野俊輔 青春出版社 ・ 1両:約16万2000円で計算 】

# 加賀藩
・ 表高102.5万石、実高135万石。
・ 人口(明治3年): 1,086,159人。
・ 家臣団(明治2年): 1万1857人。
【歴史人 2018.08.No92 江戸三百藩「仕事と暮らし」】

# 加賀藩士: 相坂家 ・ 青池家 ・ 青木家 ・ 青地家 ・ 青山家 ・ 赤座家 ・ 阿岸家 ・ 浅井家 ・ 浅加家 ・ 浅田家 ・ 穴生家 ・ 阿部家 ・ 天野家 ・ 雨夜家 ・ 荒木家 ・ 有沢家 ・ 有松家 ・ 池田家 ・ 石浦家 ・ 石黒家 ・ 板津家 ・ 伊藤家 ・ 稲垣家 ・ 猪山家 ・ 今枝家 ・ 今村家 ・ 入江家 ・ 岩本家 ・ 魚住家 ・ 氏家氏 ・ 梅田家 ・ 瓜生家 ・ 上木氏 ・ 大田家 ・ 大場家 ・ 大橋家 ・ 大町家 ・ 大森家 ・ 岡田家 ・ 岡本家 ・ 奥村家 ・ 奥野家 ・ 押野家 ・ 織田家 ・ 乙丸家 ・ 改田家 ・ 鹿毛家 ・ 笠間家 ・ 樫田家 ・ 片岡家 ・ 潟上家 ・ 勝木家 ・ 加藤家 ・ 金岩家 ・ 金子家 ・ 神谷家 ・ 亀井家 ・ 狩野家 ・ 川上家 ・ 川口家 ・ 川崎家 ・ 川端家 ・ 北川家 ・ 木越家 ・ 岸田家 ・ 木梨家 ・ 木村家 ・ 久徳家 ・ 杏家 ・ 行事家 ・ 国沢家 ・ 国田家 ・ 久保家 ・ 熊走家 ・ 黒瀬家 ・ 小泉家 ・ 河内山家 ・ 越田家 ・ 小杉家 ・ 小林家 ・ 駒井家 ・ 小松家 ・ 小山家 ・ 近藤家 ・ 酒井家 ・ 坂野家 ・ 鮭延家 ・ 笹島家 ・ 佐双家 ・ 佐々家 ・ 沢田家 ・ 三階家 ・ 品川家 ・ 篠原家 ・ 斯波家 ・ 柴田家 ・ 柴山家 ・ 芝山家 ・ 渋谷家 ・ 島田家 ・ 白江家 ・ 世良田家 ・ 千秋家 ・ 多賀家 ・ 高木家 ・ 高桑家 ・ 高沢家 ・ 高田家 ・ 高野家 ・ 高畠家 ・ 高峰家 ・ 高山家 ・ 滝波家 ・ 武家 ・ 竹内家 ・ 武部家 ・ 多田家 ・ 田近家 ・ 田中家 ・ 谷家 ・ 田丸家 ・ 田屋家 ・ 近岡氏 ・ 長家 ・ 津田家 ・ 土田家 ・ 出村家 ・ 寺井家 ・ 寺田家 ・ 寺西家 ・ 徳光家 ・ 永井家 ・ 中川家 ・ 中野家 ・ 中村家 ・ 半井家 ・ 名島家 ・ 中越家 ・ 長田家 ・ 中西家 ・ 奈志見家 ・ 七尾家 ・ 西田家 ・ 西村家 ・ 額家 ・ 野口家 ・ 野村家 ・ 羽喰家 ・ 橋爪家 ・ 八田家 ・ 原家 ・ 春木家 ・ 東方家 ・ 平田家 ・ 平野家 ・ 広瀬家 ・ 深田家 ・ 深美家 ・ 福島家 ・ 福田家 ・ 藤懸家 ・ 藤田家 ・ 不島家 ・ 不破家 ・ 保坂家 ・ 堀家 ・ 本田家 ・ 本多家 ・ 本保家 ・ 馬替家 ・ 松浦家 ・ 松下家 ・ 松田家 ・ 松波家 ・ 松能家 ・ 松原家 ・ 松村家 ・ 丸毛家 ・ 三浦家 ・ 水上家 ・ 水島家 ・ 水野家 ・ 宮川家 ・ 宮崎家 ・ 宮田家 ・ 宮永家 ・ 深山家 ・ 向家 ・ 村家 ・ 村井家 ・ 村上家 ・ 村田家 ・ 村本家 ・ 安田家 ・ 安原家 ・ 山上家 ・ 山崎家 ・ 結城家 ・ 湯原家 ・ 由比家 ・ 横川家 ・ 横山家 ・ 吉岡家 ・ 吉田家 ・ 吉谷家 ・ 吉野家 ・ 吉本家 ・ 四柳家 ・ 米沢家 ・ 脇本家

# 加賀騒動: 前田利家と正室の「まつ」の嫡男の前田利長には子がいなかったため、次男で能登国七尾城主だった前田利政は、関ヶ原の合戦で西軍寄りで、改易されて京に隠棲していた。このため、利長のあとは利家の庶子である前田利常が継いだ。その際に、利政の子孫は前田土佐守家として加賀藩の家老になった。この利政の玄孫となる前田直躬(なおみ)が守旧派としておきたのが「加賀騒動」である。利常の孫の前田綱紀は、正保2年(1645年)に3歳で藩主になって80年近く加賀藩を治めた。綱紀は善政をしいて文化も盛んになったが財政状態は悪化していった。そこで、孫で六代藩主の前田吉徳(よしのり)は足軽出身の大槻伝蔵を重用して藩政改革を始めた。重臣たちは、これに反発して、吉徳の死後に伝蔵を失脚させて五箇山に幽閉し、さらに吉徳の側室の真如院との不義密通をでっちあげて彼女の3人の子も失脚させた。これを「加賀騒動」という。【出典

# 加賀藩(かがはん): 加賀国。金沢城。前田家。外様大名。102万5000石。控間:大広間。格:国主。位階:従三位。上屋敷:文京区本郷。天正9年(1581年)に、前田利家が織田信長から能登一国を賜ったことに始まる。本能寺の変の後に、豊臣秀吉に従った利家は、加賀国の北半分を加増されて、以後は金沢を藩庁とした。のちに越中国も賜った。秀吉の死後に、利家のあとをついだ利長は徳川家康に属し、関ヶ原の合戦では東軍について、加賀国の南半分を加増された。総石高は120万石におよんだが、三代藩主の利常の隠居の際に、次男の利次に富山10万石、三男の利治に大聖寺7万石を分知したため、102万5000石になった。【出典


【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。

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