「多賀」の名字の由来 | |
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■ 多賀(たが)
【2023/05/22:改編】
# 近江国から数流の多賀氏がでている。江州の中原氏族、伴氏族、清和源氏の武田氏族、宇多源氏の佐々木氏族など。旗本の多賀家は近江の中原氏族の出という。出雲国飯石郡の日原城主の多賀氏も近江から移住したと伝える。ほかに藤原北家秀郷流の山内首藤氏族、伊予河野氏族など。代表家紋は「片喰紋」「五三桐紋」。【出典】【家紋のデータ】
# 近江国愛知郡の国衆。近江国の中原氏の末裔。崇峻天皇の末裔という近江国の中原氏の一族が近江国愛智郡の多賀神社の神官になって、多賀氏を称した。鎌倉時代には京極氏に従った。室町時代、犬上多賀氏と坂田多賀氏の二流に分かれた。犬上多賀氏の多賀常則は浅井長政を経て豊臣秀吉に仕え、豊臣秀長に属して大和国高市郡で2000石を領した。江戸時代には旗本。【出典】
# 上総国市原郡の国衆。近江国の佐々木氏の末裔といい、池和田城(千葉県市原市池和田)に拠って里見氏に属した。永禄7年(1564年)に多賀越中守は里見義弘に従って国府台で北条氏と戦って討ち死にした。子の高明は池和田城で北条氏政に敗れて自刃した。【出典】
# 出雲国の国衆。近江国の多賀氏の一族。室町時代に、京極氏が出雲国の守護になったのに従って、出雲国楯縫郡平田保(島根県出雲市)・出東郡宇賀郷に地頭として入部。以後は、平田を中心に勢力を拡大した。戦国時代、尼子氏が出雲国に進出して京極氏を追放すると多賀氏も追われた。永禄6年(1563年)に毛利元就が尼子氏方の白鹿城を落とすと、多賀氏は島根郡東長田・西長田を毛利氏から賜って、羽倉山城(島根県松江市)に拠った。また、飯石郡須佐郷(島根県雲南市)に広がった一族は尼子氏に仕えた。【出典】
# 東京都の多賀家: 旗本で、崇峻天皇の末裔という近江の中原氏の一族が、近江国愛智郡(滋賀県)の多賀神社の神職となり多賀氏を称した。【出典】
# 多賀家: 堀秀重の子の秀種は多賀家に養子にいき多賀秀種を称したが養父が明智光秀に組したので兄の堀秀政に仕えるようになった。後には豊臣秀吉のもとで大和国神楽岡2万石を領したが関ヶ原の戦いで西軍に属し領地を失った。その後は、越後国の堀家に仕え、子孫は加賀藩士。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】
# 国衆
# 「賀」のつく名字
# 「多」のつく名字
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