「本多」の名字の由来 | |
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■ 本多(ほんだ)
【2022/03/03:改編】
# 296位
# 293位【知っておきたい家紋と名字 別冊宝島】
# 代表家紋
# 四国を除いて、ほぼ全国に分布し、特に長崎県(島原半島)や群馬県(特に北西部)に多くみられる。
# 長崎県:32位、群馬県:117位、福島県:122位、石川県:159位、愛知県:164位、〜山形県:384位。
# 本多家
・ 徳川譜代で最大勢力をほこるのは本多家で大名八家、旗本多数。本多家は江戸時代には大名13家、旗本45家という資料もあるが、時代によって違うんだろう。
・ 藤原兼通の子孫。豊後国本多郷をルーツとし、足利尊氏のもとで尾張国の地頭となり、子孫が三河国に移り住んだ。
・ 藤原北家の公家の二条家綱の後裔といわれる。家綱の孫の秀豊が豊後国の本多郷を領し、本多氏を称し後に三河国に移り住んだというが不詳。
・ 本多家は藤原道長の伯父の藤原兼通の子孫を称す。兼通の十一代の子孫の助秀が本多氏を称した。本多助秀の孫の助政に定通と定政の二子があり、定通の曾孫の助時が平八郎を名乗った。子孫に本多平八郎忠勝がいる。本多は本来は本田で、分家が本多氏を称した。【日本人なら知っておきたい 家紋と名家のいわれ 大野敏明 実業之日本社】
# 徳川家康の家臣の本多忠勝の先祖は京の加茂神社の神職。この加茂神社の神紋が「葵(アオイ)」。葵の紋はここに由来する。本多忠勝の家紋。
# 中臣鎌足が天智天皇より賜ったことに始まる藤原兼通一族や、清和天皇の子孫で源姓を賜った清和源氏の一族の清川氏などにもみられる。
※ 徳川家康の家臣で「徳川四天王」の一人「本多忠勝」が有名で上総国の大多喜藩初代藩主、伊勢国の桑名藩初代藩主。。
※ 徳川家康の家臣で「鬼作左」と呼ばれた「本多重次」は「明瞭簡潔な手紙の筆者」として有名。それは、「一筆啓上火の用心、おせん泣かすな、馬こやせ」というもので、長篠の戦いの陣中から留守宅の妻にあてたもの。越前国の丸岡藩。
※ 余談であるが、簡潔明瞭な手紙の一つとして「世界一短い手紙」として有名なのが ヴィクトル・ユーゴーのものである。「レ・ミゼラブル」が出版された直後に、海外から出版社にあてて「売れてるか?」という趣旨の手紙を出し、出版社では「売れてるよ!」という趣旨の手紙を返したもので、本文は各々「?」と「!」だそうです。
※ なお、読み方は同じだが漢字が違い、名字のルーツが同じというものが結構多い。代表的なのは「渡辺」「渡部」などだが、「本多」と「本田」は読みは同じだが、ルーツは異なるようだ。ただし、漢字としては「本田」から「本多」に転じたようで、「田→多」の例は他にも見られる。「前田→前多」など。「多」は「佳字」である。
# 宮城県の本多家: 仙台藩の重臣。当初は太田氏を称し、織田信長に仕えていた。承応年間に伊達氏に仕え、母親が本多氏の出であったことから藩主の命にて本多氏を称した。
# 福島県の本多家: 泉藩主。寛文2年(1662年)に忠義の三男の忠似が父の所領のうち陸奥国石川郡で1万石を分知され浅川に住んだのを祖とする。その後延享3年(1746年)に陸奥国泉(福島県いわき市泉町)に転封となった。
・ 陸奥泉藩(福島県いわき市)藩主。白河藩主の本多忠義の三男の忠以が1662年に父の忠義の所領のうち、陸奥国石川郡で1万石を分知されて浅川に住んだのが祖。1681年に忠晴は三河伊保に移され、1746年には忠恕が陸奥泉に転封となった。忠※は1788年には側用人、1790年には老中格となった。幕末に、忠紀は奥羽列藩同盟に加わったため、1888年に官位を奪われ、さらに2000石を召し上げられて隠居。1884年に忠彦が子爵。【出典】
# 新潟県の本多家: 小須戸組矢代田村の旧家。もとは、信濃国飯山城に仕えた武士だったが、浪人して御稚児に移り住み、市右衛門新田を開発した。1686年に矢代田村の肝煎となり、のちに庄屋になり、幕末まで代々つとめた。【出典】
# 石川県の本多家: 加賀の前田家の筆頭家老は本多家5万石。徳川家譜代の本多家の同族。【出典】
・ 加賀藩家老。本多正信の二男の政重が前田利長に仕えて、江戸時代には加賀藩の家老となり、陪臣ながら5万石を領した。明治時代には男爵。【出典】
# 石川県の本多家: 本多正信の次男の政重が前田利長に仕え、江戸時代には加賀藩の家老として5万石。明治時代には男爵。【出典】
# 福井県の本多家: 越前の福井藩の筆頭家老は本多家2万石。
・ 福井藩の家老。譜代大名の本多家の一族である本多富正は、結城秀康に仕えて家老となり4万5000石を領した。代々、福井藩の家老を務め府中本多氏と呼ばれた。明治維新後には1884年(明治17年)に男爵。【出典】
# 長野県の本多家: 飯山藩主。広孝は松平広忠・徳川家康父子に仕え、1577年に遠江国に2000貫文の所領を与えられたのが祖。子の康重は家康の関東入国で上野白井城2万石を与えられ、関ヶ原の合戦後、1601年に三河国岡崎5万石に入封。1645年に遠江横須賀に転じたが、1682年に改易された。後に出羽国村山郡で1万石で再興、助芳のときに越後糸魚川を経て、1717年に信濃飯山2万石に加転となった。明治時代には子爵。【出典】
# 静岡県の本多家: 駿河国の田中藩主。譜代大名の本多家の一族で、西城本多氏の末裔。本多正重が永禄6年(1563年)に一向一揆に組して家康に追放された。慶長元年(1596年)に家康に召し出され、下総国1万石で立藩したのが祖。明治維新には徳川家の駿河移転にともない、安房国長尾1万石。
・ 駿河国田中藩(静岡県藤枝市)藩主。本多俊正の四男の正重が1616年に下総国で1万石を領したのが祖。正重の死後、養子の正貫は8000石を継いで旗本となり、1677年に正永は弟正方に1000石を分知して7000石となった。正永は後に1万石に加増されて大名となり、1709年には老中となり4万石。1730年に正矩のときに駿河国田中藩を立てた。1868年に徳川家の駿河移転の際に、安房国長尾1万石に転じた。明治時代には子爵。【出典】
# 静岡県の本多家: 静岡県藤枝市の田中藩の本多家(4万石)は本多正信の弟の家系で、明治維新で徳川宗家が駿府に移動したのにあわせて、安房長尾に移動した。
# 愛知県の本多家: 三河国の岡崎藩主。藤原北家で助秀が豊後国本多に住んで本多氏を称した。室町時代に三河国に移り松平家に仕えた。徳川四天王に数えられた嫡流の本多氏(忠勝)の他、伊那本多氏、西城本多氏がある。岡崎藩主は嫡流の出。【家紋:右離れ立ち葵紋】明治維新後には子爵。
・ 本多忠勝を祖とする岡崎藩の本多家は江戸時代に9回(16代)の転封があったという。
・ 岡崎藩主。本多家の嫡流。忠勝は徳川四天王の一人とされ、1590年の家康の関東入国の際には上総国大多喜城主10万石となった。関ヶ原の合戦後、1601年には伊勢桑名10万石へ。子の忠政は1617年に播磨姫路15万石へ加転。1639年には政勝が大和郡山15万石へ。1679年に忠国は陸奥福島15万石を経て、1682年に播磨姫路15万石へ転じた。1704年に忠孝は越後村上15万石へ転じたが、1709年に嗣子がいないままに死去。忠英の長男の忠良が継ぐことを認められたが、5万石に減知。以後、三河刈谷5万石、下総古河5万石、石見浜田5万石を経て、1769年に忠粛(ただとし)が三河岡崎に転じた。明治時代には子爵。【出典】
# 愛知県の本多家: 三河国の西端藩主。伊那本多氏の系統で三河国宝飯郡伊那(愛知県豊川市伊那)に住んだ。
・ 三河国西端藩(愛知県碧南市)藩主。本多康俊の二男の忠相は二代将軍秀忠に仕え、1616年に三河国碧南郡で1000石が与えられたのが祖。以後、1624年に500石、1628年に2000石、1630年に1500石、1633年に3000石を加増されて8000石となった。さらに子の忠将が1682年に1000石を加増されて9000石となった。1864年に忠寛が加増されて1万500石となり大名となり、三河西端藩を立藩した。明治時代には子爵。【出典】
・ 伊勢神戸藩(三重県鈴鹿市)藩主。伊奈本多氏の子孫。康将の二男の忠恒が、1679年に父の所領のうちから1万石を分知されたのが祖。子の忠統は1724年に寺社奉行、1725年に若年寄となり、1732年に所領を伊勢国川曲部、河内国錦部郡のうちに移され、川曲部神戸に住んだ。1745年に伊勢国川曲・鈴鹿・三重三郡で5000石を加増されて1万5000石となり、神戸城を築城。明治時代には子爵。【出典】
# 滋賀県の本多家: 膳所藩主の本多家は、伊奈本多氏の末裔。酒井忠次の二男の康俊が天正8年(1580年)に本多忠次の養子となり、天正17年に家督を継いだ。江戸時代には三河西尾2万石、後に近江膳所3万石。
・ 膳所藩(滋賀県大津市)藩主。酒井忠次の二男の康俊が1580年に本多忠次の養子となって1589年に家を継ぎ、翌年の徳川家康の関東入国に際しては、下総国匝瑳郡小篠郷(千葉県匝瑳市)で5000石を領したのが祖。関ヶ原の合戦後、1601年に三河西尾2万石を経て、1617年に近江国膳所3万石で入封した。俊次は西尾三河城3万5000石、1636年に伊勢亀山5万石を経て、1651年に近江膳所7万石に戻った。1679年に康慶は弟の忠恒に1万石を分知し、以後6万石となった。明治時代には子爵。【出典】
# 兵庫県の本多家: 播磨国の山崎藩主で本多政朝の三男の政信が寛永16年(1639年)に正勝の養子となり、承応2年(1653年)に大和国郡山で1万石で立藩した。延宝7年(1679年)に忠英が播磨国宍粟郡に移り山崎の地に陣屋をおいた。
・ 播磨国山崎藩(兵庫県宍粟市)藩主。姫路藩主の本多政朝の三男の政信は、1639年に政勝の養子となり、1653年に大和国のうちで1万石を与えられ郡山城内に住んだ。1679年に忠英が所領を播磨国宍粟郡に移されて山崎に陣屋を置いて、山崎藩を立藩した。明治時代には子爵。【出典】
# 本多静六: 埼玉県久喜市の出身。「公園の父」と言われる。日比谷公園、小諸公園、奈良公園、岐阜公園、室蘭公園、尾道公園など。
# 本多(本田)髷。幕末の武士の髷の結い方で、徳川家康の時代に活躍した本多平八郎忠勝の髷の形が広まったもので、江戸時代中期頃から流行した。
# 愛知県豊川市の旧小坂井町の東に伊奈城址がある。15世紀半ば以降、本多氏の居城。本多氏は豊後国日田の出身で、室町時代から伊奈を本拠地にした。
【本多】
# 本田に通用することがある。
# 藤原氏族北家兼通流。兼通の男顕光第十一代右馬允助秀が、豊後国本多に住んで本多を名乗った。後に三河に移り住んだ。
【苗字の謎が面白いほどわかる本 丹羽基二】より
# 「ほんだ」はもともと本田が正しく、「元の田」を意味し、新田に対する旧田のこと。後に佳字の「多」に変えた。
# 山城の藤原北家道兼流があり、多くはこの系統と言われる。
【本多】【出典】
# 愛知県の本多氏: 三河国の松平氏の重臣で藤原北家の出と言われる。藤原兼通の11代裔の助秀が豊後国本多に住んで本多氏を称した。助秀の子の助定が足利尊氏に仕え、尾張国横根・粟飯原を領し、後に三河国に移り住んだ。その後は松平氏に仕え、「嫡流」「伊奈本多氏」「西城本多氏」がある。
# 嫡流: 嫡流の「本多忠勝」は、家康に仕え「酒井忠次」「榊原康政」「井伊直政」と共に徳川四天王と言われた。徳川家康の関東入国に際して、上総国の大多喜10万石を領す。江戸時代には、伊勢国桑名10万石、播磨国姫路15万石など各地を転々とし、明和6年(1769年)に三河国の岡崎藩主となった。播磨国の山崎藩主や陸奥国の泉藩主の本多家は分家。
# 伊奈本多氏: 三河国宝飯郡伊奈(愛知県豊川市伊奈)に住んだ。徳川家康の関東入国に際して、下総国匝瑳郡小篠郷(千葉県匝瑳市)で5千石を領す。江戸時代には三河国西尾2万石を経て元和3年(1617年)に近江国膳所3万石を領す。伊勢国の神戸藩主や三河国の西端藩主、越前国の福井藩の家老の本多家は分家。
# 西城本多氏: 三河国西城に住んだ。本多正信は徳川家康に仕えて、その子の正純は元和5年(1619年)に下野国宇都宮15万5千石を領したが、後に断絶。宇都宮の吊り天井事件か?本多正重は元和2年(1616年)に下総国1万石を領し、後に駿河国の田中藩主となる。加賀藩の家老の本田家は同族。
# 土井本多氏: 西城本多氏の支流。本多秀清が松平氏に仕え、1497年に三河国碧海郡土井郷(愛知県岡崎市)を領した。徳川家康の関東入国に際して、上野国白井城2万石を領し、江戸時代には三河国岡崎5万石から、信濃国飯山2万石へ。【家紋:本多立ち葵】
# 本田・本多(ほんだ): 誉田【出典】
・ 新田に対して、もとの田が本田。
・ 最も古い氏族は、信濃国の安曇氏で、古代の大族で、善光寺に金仏を祀ったという信濃国水内郡の本田善光はその子孫で、諏訪地方に広まった。
・ 武蔵の本田氏は武蔵国男衾郡本田(埼玉県)をルーツとし、武蔵七党の丹党の出。子孫は後北条氏に従い、後に帰農した。
・ 薩摩の本田氏は桓武平氏の平良文の末裔で、島津久光が薩摩国に下向したときに随行した。その後は大隅国の守護代を務めた。
・ 播磨の赤松氏、肥後の菊池氏などにみられる。
・ 徳川時代に栄えた本多氏は、もとは本田氏を称した。出自は藤原北家で、関白の藤原兼通の子の顕忠の末裔という。
・ 徳川四天王の筆頭の本多平八郎忠勝の系統は、顕忠の十世助秀が豊後国(大分県)本多に転じ、その子の助定が尾張国(愛知県)に転じた。
・ 尾張の本多家は豊臣秀吉に仕えて本多利久が大和国高取城主となった。藤原氏とは別系統で尾張源氏の水野氏の出という。
・ 代表家紋: 本田立ち葵・丸に本の字紋。
【本多の地名】
# 本多(ほんだ): 東京都国分寺市本多。もとは大字本多新田といったようで、本多氏が開いた新田か?
# 本多(ほんだ): 埼玉県新座市本多。
# 本多村(ほんだむら): 福島県会津若松市北会津町安良田本多。江戸時代から明治初期にかけて福島県会津地方にあった村名。本田とも書き、会津地方中部、鶴沼川東岸に位置する。
# 本多町(ほんだまち): 石川県金沢市本多町。
# 本多(ほんだ): 福井県越前市(旧武生市)に昭和時代にみられた町名。地名は、本多富正を祀る藤垣神社が鎮座していることによる。【出典】
# 本多町(ほんだちょう): 大阪府河内長野市本多町。
# 本多村(ほんだむら): 明治時代から昭和初期にかけて奈良県にあった村名。
■ 本多家
■ 飯山藩 ・ 泉藩 ・ 岡崎藩 ・ 神戸藩 ・ 膳所藩 ・ 田中藩 ・ 西端藩 ・ 山崎藩
# 本多正信といえば、真田丸の近藤正臣のイメージが強いか?でも、近藤正臣といえば、私の年代だと「近藤です」というギャグや、「ピアノの上を爪先立って歩く」、テレビドラマの一シーンかなぁ。
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