藤原道長 | |
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■ 藤原道長(ふじわらのみちなが)【出典】
・ 966−1027年。享年62歳(病死)。
・ 出身地: 京(京都府)
・ 肩書き: 公卿(公家)
・ 家族: 父:藤原兼家。子:藤原頼通。
・ 摂関政治が華やかな10〜11世紀では、藤原氏の氏長者になることが、すなわち摂政・関白として政権の最高位に就くことであった。藤原北家の藤原兼家の五男として生まれた道長は、氏長者には無縁と思われたが、兄たちが疫病で死去しため、いきなり候補に浮上した。対立候補として、長兄の藤原道隆の嫡男の藤原伊周(これちか)がいたが、道長の姉であり一条天皇の母である詮子(せんし)が道長を強く推したため、道長は「内覧」の位を得て、朝廷の首座に就いた。その後、藤原伊周は、詮子を呪い殺そうとしているとの嫌疑をかけられ、また誤って花山天皇に矢を射かけてしまうという事件を起こしたため、大宰府に左遷させられた。これを「長徳の変」という。藤原道長は左大臣になり、長女の彰子(しょうし)を一条天皇の中宮とした。一帝二后の制度を認めさせ、中宮も皇后に相当する地位にした。そして、彰子の子を後一条天皇、次いで後朱雀天皇に即位させた。さらに、次女の妍子(けんし)を三条天皇の中宮に、三女の威子(いし)を後一条天皇の中宮にしたため、道長の地位は不動のものとなった。1017年に、道長は病のため摂政は息子の頼通に譲ったが、太政大臣としての権力温存した。道長は浄土宗を信仰し、54歳で出家した。
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