藤原氏の人々
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■ 藤原(中臣)鎌足(ふじわらのかまたり)

■ 藤原清衡(ふじわらのきよひら)

■ 藤原秀郷(ふじわらのひでさと)

■ 藤原不比等(ふじわらのふひと)

■ 藤原道長(ふじわらのみちなが)

■ 藤原宇合(ふじわらのうまかい): 694−737年。名は馬養(うまかい)だったが、遣唐使の副使として入唐後に「宇合」と称した。長屋王の変のときの式部卿だったため式家という。【出典

■ 藤原兼家(ふじわらのかねいえ): 929−990年。兄の藤原兼通と地位を争って不仲になった。一時、不遇となったが、のちに娘の詮子(せんし)が一条天皇を産んで、摂政関白太政大臣になった。それ以降、兼家の系統が摂政・関白を独占した。【出典

■ 藤原兼通(ふじわらのかねみち): 925−977年。兄の藤原伊尹の死後、弟の兼家と不仲に成って、摂政の地位を争った。死の直前に、関白を頼忠に譲り、兼家を降格させた。【出典

■ 藤原清河(ふじわらのきよかわ): 752年に派遣された遣唐大使。君子として皇帝に賞賛された。753年に阿倍仲麻呂と共に帰国しようとしたが、暴風のために漂流。その後は唐朝に仕えて客死した。【出典

■ 藤原公任(ふじわらのきんとう): 966−1041年。公家で歌人。大納言として政権を支えた。【出典

■ 藤原薬子(ふじわらのくすこ): ?ー810年。式家の種継の娘。平城天皇に寵愛されて、兄の仲成と共に権勢を振るった。嵯峨天皇が即位すると権威の失墜をおそれ、藤原仲成と共に平城上皇の復位を目的に平城京への遷都を図った。仲成は射殺され、薬子は自害した。【出典

■ 藤原伊周(ふじわらのこれちか): 974−1010年。藤原兼家の嫡男である藤原道隆の三男。道隆の死後に、道隆の弟の藤原道長と氏長者の位を争って対立した。長徳の変で996年の太宰権帥に左遷された。その後、復帰したが一条天皇の不信をぬぐえず、37歳で死亡した。【出典

■ 藤原定家(ふじわらさだいえ): 1162−1241年。「新古今和歌集」の撰者のひとり。情趣を尊び、巧緻を極めた作風で知られる。【出典

■ 藤原実資(ふじわらのさねすけ): 有職故実(ゆうそくこじつ)の流派である小野宮流を継いだ。藤原道長に実権を握られたが、学識、良識のある人として人望があった。実資の60年あまりにおよぶ日記の「小右記(しょうゆうき)」は摂関家の重要史料になった。【出典

■ 藤原純友(ふじわらすみとも): ?ー941年。藤原北家の出で、伊予掾になって、海賊の制圧に赴任した役人だったが、そのまま伊予国(愛媛県)に土着し、936年頃には自らが海賊の棟梁になった。やがて、勢力を瀬戸内海全域に広げ、940年頃には淡路国讃岐国の国府や大宰府を攻略。それに慌てた朝廷が、小野好古(おののよしふる)や源経基などを送り込んで、翌年に制圧した。【出典

■ 藤原詮子(ふじわらのせんし): 962−1001年。藤原兼家の娘。一条天皇の母。991年に出家して東三条院になった。女院号の初め。しばしば政治に介入して、伊周を遠ざけて、弟の藤原道長の政権獲得を支援した。【出典

■ 藤原隆家(ふじわらのたかいえ): 979ー1044年。藤原道隆の四男。花山法王に弓を射たことで出雲権守に左遷された。これを長徳の変という。その後許されて中納言に復帰。1014年に大宰権帥に任じられて、1019年に刀伊の入寇を撃退した。【出典

■ 藤原隆信(ふじわらのたかのぶ): 1142−1205年。公家藤原定家の異父兄。歌人でもあったが、画家としても有名だった。【出典

■ 藤原忠平(ふじわらのただひら): 880−949年。藤原基経の子。藤原時平の弟。延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。人望があつく、摂政関白として長く政権に関わった。藤原時平の死後に、「延喜式」を編纂した。【出典

■ 藤原忠通(ふじわらのただみち): 1097−1164年。保元の乱では後白河天皇側について勝利したが、藤原信頼と対立して失脚した。【出典

■ 藤原種継(ふじわらのたねつぐ): 737−785年。藤原不比等四兄弟の三男で、藤原宇合の孫。784年に、長岡京造営使に任命された桓武天皇の腹心の公家であったが、桓武天皇が大和国へ出かけた留守中に、遷都に反対する大伴継人らに矢で射られ、暗殺された。【出典

■ 藤原時平(ふじわらのときひら): 871−909年。菅原道真の抜擢によって立場が危うくなったのが藤原基経の子の時平。901年に、時平は道真が女婿の斉世(ときよ)親王を即位させようとたくらんでいると讒言して、これによって道真を左遷させたが、39歳で病没した。【出典

■ 藤原仲成(ふじわらのなかなり): 764−810年。式家の種継の子。妹の薬子とともに平城天皇のもとで専横を極めた。嵯峨天皇の即位後、平城上皇の復位を画策して、朝廷の混乱を招いた。薬子の変で嵯峨天皇側によって捕縛されて、殺された。【出典

■ 藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ): 706ー764年。光明皇后に信任されて、橘諸兄の勢力を追い落とした。諸兄の子の橘奈良麻呂の反乱を未然に防いで、最高権力者になった。養老律令を施行した。紫微中台(しびちゅうだい)の長官になって、恵美押勝(えみのおしかつ)の名を賜り、道鏡と対立した。764年に反乱を起こしたが、敗れて処刑された。【出典

■ 藤原成親(ふじわらのなりちか): 1138−1177年。後白河法皇の側近。鹿ヶ谷の陰謀で平家打倒を企てたが、捕縛されて殺害された。【出典

■ 藤原信実(ふじわらののぶざね): 1176?−1265?年。藤原隆信の子。歌人で、また似絵の大家として知られる。【出典

■ 藤原信頼(ふじわらののぶより): 1133−1159年。後白河法皇の重臣。藤原通憲と対立した。源義朝と共に平治の乱をおこして通憲を討ったが、平清盛に敗北して、斬首になった。【出典

■ 藤原秀衡(ふじわらのひでひら): 1122ー1187年。藤原基衡の子。奥州藤原氏の最盛期を築いた。奥州産の金と馬によって巨大な財力を築き、当時の平泉は平安京に次ぐ人口を擁した。また、源義経を16歳から6年間養育した。また晩年には源頼朝から追われた義経を匿った。【出典

■ 藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ): ?ー740年。藤原四兄弟の宇合(うまかい)の長男。四兄弟の死去後の橘諸兄政権に不満を持った。厄災の原因は諸兄らにあるとして、反乱を起こしたが捕らえられ、処刑された。【出典

■ 藤原房前(ふじわらのふささき): 681−737年。藤原不比等の次男で藤原北家の祖。初の地方観察官(巡察使)となって、東海道の行政監察を行った。藤原北家は藤原四家の中で最も栄えた。【出典

■ 藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ): 775ー826年。藤原内麻呂の子。嵯峨天皇の信任が厚く、最初の蔵人頭に任ぜられ、後に左大臣まで上りつめ、藤原北家興隆のもとになった。藤原氏のための教育機関の勧学院を開設。娘の順子(じゅんし)が文徳天皇を生んだ。また薬子の変の収束にも尽力した。【出典

■ 藤原麻呂(ふじわらのまろ): 695−737年。他の三兄弟とは異母兄弟。歌人としても知られ、万葉集に歌がおさめられている。京職大夫(きょうしきだゆう)だったため、京家という。【出典

■ 藤原通憲(ふじわらのみちのり): ?ー1159年。法名を信西(しんぜい)という。後白河天皇の側近をつとめた。平清盛と結んで、権力を持ったが平治の乱で藤原信頼に敗れて自害した。【出典

■ 藤原武智麻呂(ふじわらのむちまろ): 680−737年。深い教養があり、皇太子時代の聖武天皇の家庭教師を務めた。大学制度の設立に尽力した。藤原南家の祖。【出典

■ 藤原基経(ふじわらのもとつね): 836−891年。藤原道長の子、藤原良房の養子。乱行のあった陽成天皇を廃し、光孝天皇を即位させた。後に、外戚関係のない宇多天皇を即位させて、887年の阿衡の紛議では天皇に譲歩させた。人臣として初の関白になった。【出典

■ 藤原基衡(ふじわらのもとひら): ?ー1157年。藤原清衡の子。国司の力を上回る勢力を得た基衡は、一時国司との紛争まで起こしたが、京都の藤原氏との関係を築くことで和につとめ、その結果奥州での地位を固めた。平泉に天台宗の毛越寺を建立した。【出典

■ 藤原百川(ふじわらのももかわ): 732−779年。藤原四兄弟の、宇合の子。道鏡の皇位継承の阻止をはかった。称徳天皇の後に、光仁天皇を擁立して、要職を歴任した。【出典

■ 藤原泰衡(ふじわらのやすひら): 1155−1189年。奥州藤原氏藤原秀衡の子。源頼朝の要求に屈して、源義経の首と引き換えに平泉の安泰を図った。衣川館の義経を攻めて自害させたが、ついには義経を匿った罪で頼朝に攻められ、奥州藤原氏は滅亡した。【出典

■ 藤原行成(ふじわらのゆきなり): 972−1027年。下級官人から蔵人頭に推挙され、一条天皇藤原道長から信任を受けた。和様書道を完成させ、世尊寺流(せそんじりゅう)の祖になった。三蹟の一人。【出典

■ 藤原良房(ふじわらのよしふさ): 804−872年。藤原北家の出。藤原冬嗣の子。妹の順子が文徳天皇を、娘の明子(めいし)が清和天皇を生み、その外戚として権力をふるった。さらに承和の変伴氏紀氏らを失脚させ、藤原氏の勢力を確立した。皇族以外で初の摂政をつとめた。【出典

■ 藤原頼嗣(ふじわらのよりつぐ): 1239−1256年。藤原頼経の子。鎌倉幕府の五代将軍。九条頼嗣。六歳で将軍になった。1246年に父の頼経が謀反の疑いで追放された後も、鎌倉にとどまった。しかし、北条時頼が皇族の宗尊親王を将軍に迎えたため、十四歳で将軍を解任され、母とともに京に追放された。【出典

■ 藤原頼経(ふじわらのよりつね): 1218−1256年。九条頼経、源頼朝の遠縁で、鎌倉幕府の四代将軍となった。北条義時北条政子が権力を握り、事実上実権をもたなかった。四代執権の北条経時と対立して、謀反の疑いをかけられて京に送還された。【出典

■ 藤原頼長(ふじわらのよりなが): 1120−1156年。保元の乱では謀反の罪をきせられて、父の藤原忠実とともに後白河天皇側と戦って討ち死にした。【出典

■ 藤原頼通(ふじわらのよりみち): 992−1074年。26歳で父の藤原道長から後一条天皇摂政の位を譲られた。道長の死後は、後朱雀天皇後冷泉天皇の時勢で関白を務めた。関白在位は50年にも及んだが、刀伊の入寇平忠常の乱前九年の役がおこって政局は不安定だった。【出典


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