藤原氏の人々 | |
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■ 藤原純友(ふじわらすみとも): ?ー941年。藤原北家の出で、伊予掾になって、海賊の制圧に赴任した役人だったが、そのまま伊予国(愛媛県)に土着し、936年頃には自らが海賊の棟梁になった。やがて、勢力を瀬戸内海全域に広げ、940年頃には淡路国、讃岐国の国府や大宰府を攻略。それに慌てた朝廷が、小野好古(おののよしふる)や源経基などを送り込んで、翌年に制圧した。【出典】
■ 藤原隆家(ふじわらのたかいえ): 979ー1044年。藤原道隆の四男。花山法王に弓を射たことで出雲権守に左遷された。これを長徳の変という。その後許されて中納言に復帰。1014年に大宰権帥に任じられて、1019年に刀伊の入寇を撃退した。【出典】
■ 藤原秀衡(ふじわらのひでひら): 1122ー1187年。藤原基衡の子。奥州藤原氏の最盛期を築いた。奥州産の金と馬によって巨大な財力を築き、当時の平泉は平安京に次ぐ人口を擁した。また、源義経を16歳から6年間養育した。また晩年には源頼朝から追われた義経を匿った。【出典】
■ 藤原房前(ふじわらのふささき): 681−737年。藤原不比等の次男で藤原北家の祖。初の地方観察官(巡察使)となって、東海道の行政監察を行った。藤原北家は藤原四家の中で最も栄えた。【出典】
■ 藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ): 775ー826年。藤原内麻呂の子。嵯峨天皇の信任が厚く、最初の蔵人頭に任ぜられ、後に左大臣まで上りつめ、藤原北家興隆のもとになった。藤原氏のための教育機関の勧学院を開設。娘の順子(じゅんし)が文徳天皇を生んだ。また薬子の変の収束にも尽力した。【出典】
■ 藤原基衡(ふじわらのもとひら): ?ー1157年。藤原清衡の子。国司の力を上回る勢力を得た基衡は、一時国司との紛争まで起こしたが、京都の藤原氏との関係を築くことで和につとめ、その結果奥州での地位を固めた。平泉に天台宗の毛越寺を建立した。【出典】
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