本多家
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■ 本多家(ほんだけ): 「本多」の名字の由来

・ 代表家紋

・ 「本多家」の人々

・ 「徳川四天王」の一人の本多忠勝や、徳川家康の側近の本多正信、本多重次などがでた。

・ 「寛政譜」によると、本多家は藤原兼通(藤原道長の伯父)の子の左大臣顕光の子孫といい、「右馬允助秀、豊後国本多に住す。よりて称号とす。」とある。助秀の子の右馬允助定は足利尊氏に従い、1336年に粟飯原(あいはら)の志村某を討ち取り、その功により1337年に尾張国横根(愛知県大府市横根町)と粟飯原の二郷を賜ったという。

・ 本多家の流れ
 ‘供覆曚蕁紡爾諒身郎家: 本多平八郎忠勝。子孫は三河国岡崎藩5万石など。
◆^貌犇燭良八郎家: 本多縫殿助忠次。子孫は近江国膳所藩6万石。
 大平村の佐左衛門家: 本多佐左衛門重次。子孫は越前国丸岡藩4万6300石。
ぁ‥攬翅爾良Щ囲魂函А)楝針後守広孝。子孫は信濃国飯山藩2万石。本多秀清が松平家の五代長忠に仕え、1497年に土井を与えられたという。
ァ\松訛爾量鑒郎家: 本多佐渡守正信。子孫は加賀藩家老
※ 松平家に仕えていた家系で比較的大身だったのは土井村の彦三郎家という。

 ‘饗爾諒身郎家
・ 岡崎城の東に位置する三河国額田郡洞村を本拠とした。
・ 本多中務大輔忠勝(1548年〜1610年)。室は阿知波玄銕の娘。三代の平八郎忠豊は松平清康に仕えた。五代の平八郎忠勝は「徳川四天王」の一人の猛将で、家康の関東入国後に上総国大多喜藩10万石。関ヶ原の合戦後には伊勢国桑名藩に転封。嫡男の美濃守忠政は家康の孫(岡崎三郎信康の娘)を正室に迎え、播磨国姫路藩15万石を領した。子孫は、大和国郡山藩陸奥国福島藩播磨国姫路藩越後国村上藩に転じた。しかし、忠勝の七代が12歳で死去し、跡継ぎがなく断絶になるところ、分家から監物忠良を迎え、5万石で存続した。忠良は老中を務め、三河国刈谷藩に転封。子孫は石見国浜田藩を経て、三河国岡崎藩5万石を領した。分家に、播磨国山崎藩1万石、陸奥国泉藩2万石がある。

◆^貌犇燭良八郎家
・ 東三河の宝飯郡伊奈の国人領主で、寛政譜には「右馬允定助が三河国宝飯郡伊奈郷をうちとりて城郭を構え、のち代々居住す」とある。五代の忠次は永禄7年の吉田城攻めに従い、吉田城の城代となった。六代の康俊は家康の関東入国後下総国小篠5千石。関ヶ原の合戦では家康本隊の後詰めとなり、三河国の西尾藩2万石、後に近江国膳所藩に転封。子孫は三河国西尾藩、伊勢国亀山藩を経て、再び近江国の膳所藩6万石。分家に、伊勢国神戸(かんべ)藩1万5千石。三河国西端藩1万5千石。

 大平村の佐左衛門家
・ 俗に「三河三奉行」の一人で「鬼作左」と言われた本多作左衛門重次の家系。寛政譜によると、伊奈郷の本多隼人正時の次男の作左衛門信正を祖とする。「三奉行」は「仏高力(ほとけこうりき)、鬼作左、彼是偏(どちへん)無しの天野三兵」と呼ばれた。つまり「仏の高力清長」「鬼の本多作左衛門重次」「公平無私な天野三郎兵衛康景」という人事バランスが評価された。重次が書いたので有名なのが「一筆啓上、火の用心、お仙泣かすな、馬肥やせ」という手紙。また、岡崎城に大政所を迎えた時の逸話も有名。しかし、それによって重次は隠居させられた。重次の子の飛騨国成重は関ヶ原の合戦の後に越前松平家の付家老となり、越前国丸岡藩4万石。しかし、松平忠直(秀康の嫡男)が改易になると旗本に帰参。しかし、後に曾孫が不行跡で改易。子孫は交代寄合で2千石。重次の甥の子孫は越前松平家の筆頭家老として2万石。

ぁ‥攬翅爾良Щ囲魂
・ 寛政譜によると、助定の孫の定正の代に平八郎家から分かれた家系という。「豊後守秀清が、長親君に仕え、明応6年に三河国碧海郡土井の郷をたまう」とあるが不詳。四代の本多豊後守広孝(1527年〜1596年)は松平広忠・家康に仕えた。室は東条松平義春の娘。広孝は永禄7年の三河国田原城攻めの功で田原城を賜った。広孝の子の康重は家康の関東入国後、上野国白井2万石を賜り、関ヶ原の合戦後には三河国岡崎藩5万石。その後、子孫は遠江国横須賀藩5万石に転じたが、治政が悪く改易。出羽国村山郡1万石。そして越後国糸魚川藩を経て信濃国飯山藩2万石。

ァ\松訛爾量鑒郎家
・ 家康の側近の本多佐渡守正信の家系。寛政譜によると、土井村の彦三郎家の分家で、「弥八郎忠正が、清康君に仕えたてまつり、三河国西城に住し」とある。
・ 四代の弥八郎正信は1563年の三河の一向一揆で家康に離反したが後に許されて戻った。家康の関東入国後に相模国玉縄1万石で関ヶ原の合戦の際には中山道を進んだ徳川秀忠軍に参加した。後に、大久保忠隣と対立した。子の正純は下野国小山藩3万3千石から下野国宇都宮15万5千石に転封したが失脚した。正信の次男の安房守政重は上杉家の筆頭家老の直江山城守兼続の婿養子となり、後には加賀藩前田家に仕え5万石を領した。正信の弟の正重は正信と同様に一向一揆で離反した後、許されて帰参し、後に下総国相馬1万石。子孫は旗本8千石になったが、後に正永が老中に登用され、上野国沼田藩4万石を領し、子孫は駿河国田中藩4万石。 

【出典: 徳川家臣団の謎  菊地浩之 角川選書】

■ 本多: 尾張国の北半分の守護代を務めた岩倉城主の織田信安の家臣の本多利久の子の本多利朝は豊臣秀長に仕え、高取2万5千石を領したが、1637年に無嗣断絶。三河の本多氏との関係は不詳。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】

■ 本多家: 家紋「立ち葵
・ 藤原北家兼通流。豊後国本多をルーツとする。助時のときに、三河国に転じ松平氏に仕えた。【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】

■ 本多家(三河国岡崎藩
・ 本多助時が松平家の二代泰親に従った。本多家は室町時代に本多定通と本多定正に分かれ、定通が宗家。初代の本多平八郎忠勝は徳川四天王の一人で家康の関東入国後には上総国の大多喜10万石。関ヶ原の戦いの後には伊勢国桑名藩へ。本多家の宗家は、六代忠国が陸奥国の福島藩から姫路藩へ。七代忠孝は越後国の村上藩へ。八代忠良は三河国の刈谷藩、下総国の古河藩へ。その後も、石見国の浜田藩5万石、三河国の岡崎藩と転じた。幕末には新政府軍に属し、明治時代には子爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

■ 本多家(播磨国山崎藩
・ 宗家の三代の政朝の三男の政信を祖とする。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

■ 本多家(下野国宇都宮藩
・ 本多正信を祖とする。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

■ 本多家(下野国皆川藩)
・ 本多正純の弟が、最初に下野国榎本藩を立藩し、その後皆川藩2万8千石。しかし、跡継ぎがおらず、三代で断絶。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

■ 本多家(安房国長尾藩)
・ 本多正信の弟の正重が、下総国舟戸藩1万石を立藩。一時、減封により旗本となったが、四代正永が寺社奉行となり、再度舟戸藩をたてた。その後、上野国沼田藩2万石、駿河国田中藩4万石。幕末に安房国長尾藩4万石へ。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

■ 本多家(信濃国飯山藩
・ 初代の本多康重が上野国臼井藩2万石を立藩。その後、三河国岡崎藩5万石、遠江国横須賀藩4万8500石、出羽国村山藩1万石、越後国糸魚川藩、信濃国飯山藩2万石へ。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

■ 本多家(上野国臼井藩)
・ 初代の本多康重が上野国臼井藩2万石を立藩。康重の次男の紀貞が上野国臼井藩。しかし、跡継ぎがおらず断絶。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】

■ 本多正信の次男の政重は前田家に仕えて2万石の家老。子孫は明治時代に男爵。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】

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