大久保家の人々
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■ 大久保利通

■ 大久保忠佐(おおくぼただすけ): 1537−1613年。大久保忠世の弟。その武勇は織田信長にも賞賛された。関ヶ原の合戦の後には、駿河国で2万石を領したが、嫡男が早世して断絶した。【出典

■ 大久保忠隣(おおくぼただちか): 1594年に、父の忠世が死亡すると相模国小田原6万5千石を継いだ。江戸時代になって文民派の本多正信と対立し、大久保長安事件に連座して改易近江国栗太郡に流された。
・ 1553ー1628年。大久保忠世の長男。10歳のころから徳川家康に仕え、功を重ねた。忠世の家督を継いで、小田原藩主徳川秀忠の付き家老になって、二代将軍に秀忠を擁立したが、本多正信と対立して、改易となって配流されて出家した。【出典

■ 大久保忠教(おおくぼただちか): 1560−1639年。大久保忠世の弟。通称は彦左衛門。徳川家康に仕えて功をなし、徳川秀忠徳川家光に武功派として直言した。「三河物語」を書いて、「天下のご意見番」と言われた。【出典

■ 大久保忠俊(おおくぼただとし): 1499−1581年。徳川家康の祖父から三代にわたって仕えた。蟹江七本槍の一人。三河一向一揆の収束にも尽力した。【出典

■ 大久保忠世(おおくぼただよ): 1532ー1594年。古くから徳川家に仕え、功を成した。三方ケ原の戦いでの武田軍への夜襲で武田信玄を感嘆させたという。調停役としても有能で徳川家康を助けた。小田原城4万石を領した。【出典

■ 大久保長安(おおくぼながやす): 大久保長安の大久保姓は、大久保忠世からあたえられたもので、以前は大蔵姓だったという。【誰も書かなかった徳川家の謎 小泉俊一郎 中経文庫】 
・ 1545−1613年。猿楽師であったが、武田信玄に見いだされて家臣になった。のちに、徳川家康に仕え、鉱山開発や治水、一里塚の建設などに尽力した。死後に不正が疑われて、遺児七人が処刑された。【出典


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