岡崎藩
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■ 岡崎藩(愛知県岡崎市)

・ 「岡崎」の地名

・ 本多家5万石・譜代大名

・ 徳川家の関東入国後、田中吉政が入った後、譜代大名が代々居城した。

・ 1769年に本多家が入封。本多忠勝の子孫で播磨国山崎藩陸奥国泉藩は分家。

# 三河国。岡崎城。本多家譜代大名。5万石。慶長6年に立藩。控間:溜間格:城主位階:従四位下。上屋敷:千代田区有楽町。慶長6年に本多康重が立藩。その後、水野家松井松平家を経て、明和6年(1769年)に本多忠粛が入封。以後は本多家が六代続いて廃藩置県へ。【出典

# 岡崎藩士: 

# 水野騒動: 水野忠辰(ただとき)は元文2年(1737年)に14歳で三河国の岡崎藩主になったが、家臣による「押し込め」で藩主の座から追われた。しかし、ただの暗君ではなく、時代的に早く登場しすぎた悲劇の名君ともいえる。忠辰は凶作や洪水で財政赤字が増えたので生活費削減などで倹約を率先垂範したところ、たちまち相当な蓄財ができた。自身を深めた忠辰は、役人の専権事項を拡大し、信賞必罰で人材の登用や格下げを行った。しかし、門閥重臣に反抗されて挫折して、一転して度を過ぎた放蕩にふけることになった。これを見た、忠辰の母の順性院は自害した。そして、江戸藩邸の表座敷に出たところを、重臣達は忠辰に飛びかかってその脇差しを取り上げて、藩邸内の座敷牢に藩主を幽閉した。【出典


【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。

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