七日市藩
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■ 七日市藩(群馬県富岡市七日市)

・ 「七日市」の地名

・ 前田家1万石・外様

・ 加賀藩前田家の分家。

・ 加賀藩の支藩

・ 前田利家の五男で江戸で人質にされていた前田利孝が1616年に1万石で立藩した。加賀藩の参勤交代のときには中継地の役割を果たした。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】  

・ 甘楽(かんら)郡七日市に居所を構えた外様小藩。元和2年金沢藩主前田利家の五男利孝が大坂冬・夏両陣の戦功によって甘楽郡内で1万石に封ぜられ、七日市に陣屋を造営して入部した。歴代藩主は駿府加番・大坂加番などを務めた。藩領は寛文4年の「寛文朱印留」に上野(こうずけ)国甘楽郡内18か村・1万石とあり、天保5年には1万3210石余となる。当藩は宗家金沢藩の庇護下にあり、家臣団は立藩時に金沢藩から随従した家臣を中心に構成され、正徳6年には士分115人・足軽44人・小者87人・六尺9人・手廻10人・厩者12人の計277人であった。藩財政も金沢藩から援助を受けることが多かった。藩領の人口は、享保年間に1万余人といわれるが、のち減少した。藩は藩領の人口増加をめざし、文化13年豪農層の醵出金から貧窮農民に育児手当を支給する生育講を発足させ、出産・養育・縁組・貧窮者の措置などに及ぶ民政条目を布達した。幕末には東山道総督府下に入って、会津藩討伐戦の戸倉・沼田両戦に出兵した。【出典

# 七日市藩(なのかいちはん): 上野国。七日市陣屋。前田家。外様大名。1万石。元和2年に立藩。控間:柳間格:無城位階:従五位下。上屋敷:千代田区一番町元和2年に、前田利家の五男の前田利孝が分知されて立藩した。以後前田家が廃藩置県に至る。【出典

# 七日市藩士: 畑家 ・ 保坂家


【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。

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