その他の徳川家の人々
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 歴史的人物のTop
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 徳川家

■ 徳川家定

・ 十三代将軍の家定の趣味は料理で、しばしばサツマイモやカボチャや豆を煮て近臣に食べさせていたという。また、饅頭やカステラなどのお菓子も作っていたという。【誰も書かなかった徳川家の謎 小泉俊一郎 中経文庫】

■ 徳川家達

・ 1863年〜1940年
・ 徳川慶喜の大政奉還後に、徳川宗家を継いだ。御三卿の一つの田安慶頼の第三子で田安亀之助といった。1868年に静岡藩主(70万石)。

■ 徳川家綱

四代将軍家綱の生母の父親は旗本に仕えた下級武士。しかし、使い込みで死罪となり、母子は無料奉仕する「奴(やっこ)」として、下総国古河藩主の永井家に下げ渡された。その後、母親が永井家の元家臣だった古着屋と再婚し、娘に「お蘭」が古着屋の店番をしていたとき、前を通りかかった「春日局」に見いだされて大奥に上った。

■ 徳川家宣

六代将軍家宣の祖母も「玉の輿」か?母親のお夏の方(順性院)は京の町娘だったが、順性院が生んだ綱重は甲斐国甲府藩主となり、家宣は綱重の嫡男。

■ 徳川忠長

・ 駿河大納言の徳川忠長は二代将軍の徳川秀忠とお江与の方との間に生まれた。一時は兄の徳川家光を差し置いて将軍の目もあったが、春日局の力で徳川家光に決定したという。忠長は13歳の時に甲斐国20万石を得て、1624年には信濃・駿河・遠江を加増されて55万石を領し、駿府城主となった。徳川秀忠の死後、忠長を将軍にと言う謀議が露見し、徳川家光は忠長を上野国高崎城に幽閉し、所領を没収した。

■ 徳川宗春

・ 尾張藩の七代藩主。39人兄妹の34番目。1730年に尾張藩61万9500石を継いだ。

■ 松平忠輝

・ 徳川家康に六男。生後すぐに下野国長沼城主の皆川広照に養育された。一説には、家康が忠輝の容貌を嫌って「捨てよ」と言ったという。1599年に忠輝は、武蔵国深谷1万石の長沢松平家の名跡を継いだ。その後、下総国佐倉4万石、信濃国松代14万石、伊達政宗の娘の五郎八(いろは)姫を正室とした。その後越後国福島(高田)60万石。大坂の陣後に家康から勘当され、上野国藤岡で蟄居。 


Help】 「苗字」「階位」「幼名」「通称」「諱」「尊称」「号」「氏」「姓」などはこちらをご覧ください。   

スポンサーリンク
スポンサーリンク
統計表示