間部家
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■ 間部家(まなべけ)

・ 「間部」の名字の由来

# 間部家(越前国鯖江藩

# 代表家紋: 丸に三つ引両紋【日本人なら知っておきたい 家紋と名家のいわれ 大野敏明 実業之日本社】

・ 間部家の祖の真鍋詮光は家康に仕えていたが、本能寺の変で討ち死にし、家系が途絶えた。その後子孫の詮房が初代となって、間部家を再興させた。間部詮房は徳川綱豊(後の六代将軍家宣)の小姓となり、「間部」の姓は綱豊に賜った。その後、出世を重ね、側用人から若年寄格となり、老中次席まで進み、宝永7年に上野国高崎藩5万石。しかし、八代将軍の吉宗の時代になって勢力は衰え、越後国村上藩へ。間部詮房の死後は弟の詮言が跡を継ぎ、越前国の鯖江藩転封明治時代には子爵。【譜代大名126家「勝ち組」の出世競争 榎本秋 晋遊舎新書】 

# 間部詮房: 1666年に、甲府藩主の綱豊(後に家宣)の家臣の西田清貞の子として生まれた。19歳の時に家宣の小姓となり家宣が将軍になると側用人となり、高崎5万石を領した。

# 間部詮房(まなべあきふさ): 猿楽師の出身で、六代将軍になる前の徳川家宣に小姓として召し抱えられ、その後家宣が将軍になると側用人となった。側用人は、五代将軍綱吉の時代に創設された役職で、将軍と老中を取次ぎ、老中に次ぐ重職だった。1710年には高崎藩主となり、朱子学者の新井白石とともに、「生類憐れみの令」の廃止や、貨幣の改鋳を推進した。しかし、家宣の遺言により、紀州藩主徳川吉宗が八代将軍になると失脚して、高崎藩から越後村上藩転封され、享保5年(1720年)に54歳で死去した。【出典:大名の『お引っ越し』は一大事!? 江戸300藩「改易・転封」の不思議と謎 山本博文 (じっぴコンパクト新書)】

■ 間部詮房(まなべあきふさ): 1666−1720年。新井白石の補佐役。もとは猿楽師の弟子だったが、猿楽好きの甲府藩主の徳川綱豊(後の六代将軍家宣)の小姓になった。1707年に、綱豊が江戸城に入るのに伴って幕臣になった。詮房は側用人として家宣を補佐し、若年寄に次ぐ地位までのぼりつめた。【出典

■ 間部詮勝(まなべあきかつ): 1804−1884年。鯖江藩の七代藩主。老中になったが水野忠邦に疎まれて辞職。15年後に、井伊直弼のもとで老中に復帰、日米修好通商条約を締結。安政の大獄で京の攘夷派を弾圧した。志士たちを捕縛したため、「井伊の赤鬼」に対して「間部の青鬼」と言われたが、朝廷や志士の処分をめぐって井伊直弼と対立して老中を罷免された。【出典

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