山梨県内の諸藩 | |
【参考資料・文献】 | 【利用上の注意】 |
名字の由来のTop | 地名の由来のTop |
名字と地名のMenu | 藩のTop |
スポンサーリンク |
スポンサーリンク |
■ 甲府藩(こうふはん): 山梨県甲府市
・ 「甲府」の地名。
・ 江戸時代になって、甲府には徳川家の家門が入ったが、甲府宰相綱豊が家宣として将軍家を嗣いだ。
・ その後、五代将軍徳川綱吉のもとで権勢のもった側用人の柳沢吉保が15万石で入ったが、吉宗の時代になって、大和国の大和郡山藩として転封した。
・ その後は幕府領として幕末を迎える。
# 慶安4年から笛吹川以西の約15万石は徳川綱重の厨料となった。寛文元年閏8月、綱重が先の約15万石のほかに武蔵国・近江国・信濃国・駿河国のうちで10万石を加増されて25万石となり、甲府に封ぜられ、甲府藩を立藩。延宝6年9月の徳川綱重の没後藩主となった子の甲府中将綱豊は、その翌年近江国・信濃国・和泉国のうちで10万石を加増されて累計35万石を領有した。綱豊は貞享元年から残りの検地を進めて通計5万石余の出高を打ち出すが、宝永元年12月将軍綱吉の世子として江戸城西の丸に入ったため、綱吉の寵臣柳沢吉保が甲斐国3郡・15万石余を受封した。幕閣で絶対権をふるった吉保が宝永6年将軍綱吉の死によって致仕後、長子の甲斐守吉里が襲封する。柳沢氏は祖先の出身地である甲斐を永領すべく、父子2代にわたる20年間を藩政の充実に努め、笛吹川以東の旗本の知行地跡を中心とする検地、甲府城の壮麗化、諸制度と城下町甲府の整備、文化の奨励などを行ったが、享保9年3月吉里が大和郡山へ転封を命ぜられて甲府藩は廃藩となり、以後甲斐一国は幕府領と三卿領とになって幕末にいたった。【出典】
# 甲斐国。府中城。柳沢家。譜代大名。15万石。天正18年(1590年)に立藩。控間:帝鑑間。格:城主。位階:従四位下。上屋敷:千代田区内幸町。甲府は戦国大名の武田氏の本拠地で、武田家の滅亡後には織田信長が支配したが、本能寺の変後に徳川家康が領した。その後、徳川家康の関東入国後には、豊臣秀吉の養子の羽柴秀勝や、側近の加藤光泰や浅野長政らが入った。関ヶ原の合戦の後には、家康の九男の義直、徳川秀忠の三男の忠長、徳川家光の三男の綱重などの徳川一門が入封した。そして、綱重の子の家宣が六代将軍になったことで廃藩となり、五代将軍徳川綱吉の側近の柳沢氏が入封した。柳沢氏はその後に大和郡山に転封となって、天領になった。【出典】
■ 甲府新田藩(こうふしんでんはん)
・ 甲斐国。柳沢家。譜代大名。1万石。宝永6年に甲府藩主の柳沢吉里が弟の経隆と時隆にそれぞれ1万石を分知して立藩した。【出典】
・ 甲斐国。伊丹家。譜代大名。1万2000石。伊丹康勝が立藩。四代の勝守が江戸城内で自害したため、改易になった。【出典】
・ 甲斐国。谷村城。秋元家。譜代大名。1万8000石。関ヶ原の合戦の後に鳥居元忠の三男の成次が立藩した。のちに秋元泰朝が入封した。【出典】
【注意】転封などがあるため、藩主や石高には変化があります。ここでは一例を掲載しています。