水野忠邦
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■ 水野忠邦(諱): 「水野」の名字の由来

・ 1794年〜1851年

・ 幼名: 於菟五郎(おとごろう)

・ 号: 松軒・菊園

・ 階位: 越前守

・ 天保の改革を行った。

・ 水野忠邦が唐津藩主だったとき、老中になれる浜松藩主への転封を画策したという。表高はともに6万石だが、実高には大きな差があり「名をとって、実を捨てた」という感じか。当然、家臣の反対は相当で、財政改革を行っていた重臣の二本松大炊は自決したという。忠邦は1794年に唐津藩主の水野忠光の子として江戸藩邸に生まれた。寺社奉行大坂城代京都所司代老中とすすんだ。「天保の改革」の実施で有名。1843年に老中を罷免され、減知となり、子の忠精(ただきよ)は出羽国山形に転封となった。

# 水野忠邦の天保の改革

・ 老中に登用: 土井利位、堀田正篤、真田幸貫

・ 若年寄に登用: 堀田正衡、大岡忠固、遠藤胤統、本庄道貫。

・ 寺社奉行に登用: 稲葉正守、阿部正弘、戸田忠温、松平忠優。

・ 町奉行に登用: 遠山景元(金四郎)、矢部定謙。

・ 勘定奉行に登用: 佐橋佳富、梶野良材、松平政周、土岐頼旨。

【小説 遠山金四郎 童門冬二】

# 水野忠邦(みずのただくに)【出典

・ 1794ー1851年。享年58歳(病死)。

・ 出身地: 江戸(東京都)

・ 肩書き: 大名

・ 家紋: 水野沢瀉

・ 唐津藩の藩主の子として生まれ家督を継いだ。若くして幕府の奏者番(そうじゃばん)に抜擢されたが、それ以上を望んだ忠邦は浜松藩転封した。それは、唐津藩は長崎防衛の任務があるため老中になれなかったからである。忠邦は、徳川家斉のもとで出世を重ね、1828年には老中に就任すると同時に、次期将軍の家慶の補佐役となった。家斉の死後、忠邦は「天保の改革」を始め、財政難や外国船来航などの内憂外患のなか、倹約令を出して、物価高騰の原因とみられる株仲間を解散させた。農民の出稼ぎを禁止して、江戸内の貧農の帰郷を強制し、天保の飢饉で荒れた農村の復興につとめた。これを「人返し令」という。さらに、1843年には江戸や大坂周辺の50万石を幕府の直轄地にして財政安定と体外防備にあてようといた。これを「上知令(あげちれい)」という。しかし、大名や旗本の猛反発をうけた。このとにに腹心の鳥居甲斐守忠耀(耀蔵)が反対派に寝返ったため、忠邦は2年余りで老中を罷免された。翌年に、忠邦は家慶によって老中に再任されたが、約1年で辞職して出羽国山形(山形藩)に転封となった。

# 江戸時代の大名の封地では、佐賀、川越、古河、浜松、岡崎などは老中への出世コースとされた。肥前国の唐津藩の水野家は、長崎警備の職務があるので、老中などの要職にはなれない慣習だった。水野忠辰(ただとき)の玄孫にあたる忠邦は、野心あふれる若殿で、若手の登竜門である奏者番のときに、浜松への転封を工作して成功した。両地は、ともに6万石だったが、実収は唐津が25万石で、浜松は15万石だったので、家老の二本松義廉は抗議の自殺をしてしまった。それでも、忠邦はめげずに、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、西の丸老中を経て、12代将軍の徳川家慶のときには、老中として天保の改革を断行したが、政争に負けて隠居した。跡を継いだ、忠精(ただやす)は、減封のうえ山形藩に左遷された。【出典

# 水野家


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