阿部正弘
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■ 阿部正弘(あべまさひろ)【出典】: 「阿部」の名字の由来

・ 1819−1857年。享年39歳(病死)。

・ 出身地: 江戸。

・ 肩書き: 大名

・ 家紋: 丸に鷹の羽違い紋

・ 備後国福山藩主の子として江戸で生まれた。18歳で家督を継いで、幕政では奏者番から寺社奉行へと進み、25歳で老中になった。水野忠邦の失脚後に、徳川家慶・徳川家定の治世の幕政を統括した。1853年に、ペリーが率いる東インド艦隊が、アメリカの大統領の開国要求親書を携えて浦賀(神奈川県)に来航した。正弘は朝廷に報告するとともに、その対応について有力諸大名や幕臣から広く意見を募った。これは、挙国体制で対応しようとしてのことだったが、結果的には朝廷や諸大名の影響が強まって、幕政の転換期となった。老中首座の阿部正弘は、1854年に日米和親条約を結んだ。国防の重要性を感じた正弘は江戸湾に台場(砲台)を築いて、大船の建造の禁止を解いた。長崎に、海軍伝習所を設立し、江戸には講武所を開いて、西洋の科学や兵学を吸収するようにはかった。水戸藩薩摩藩長州藩佐賀藩などとともに、反射炉の建設と大砲の製造をはじめた。そして、前水戸藩主の徳川斉昭を海防参与に任命した。これらの政策を安政の改革という。その後、攘夷派と開国派に分裂したため、正弘は1855年に開国派の堀田正睦(まさよし)に老中首座を譲り、融和につとめたが、39歳で病で急死した。

# 阿部正弘: 1819年に、備前国福山藩10万石藩主の阿部正精の六男として生まれた。父の跡を継いだ兄のあとをうけて藩主となり、奏者番寺社奉行を歴任し、1845年に老中首座となった。


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