堀田家の人々
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■ 堀田正俊(ほったまさとし): 1634−1684年。徳川綱吉の将軍擁立の功で大老になった。綱吉を補佐して「天和の地(てんなのち)」と呼ばれる文治政治による改革を推進して、財政の立て直しを図った。綱紀粛正に努め、譜代大名に対しても厳格に処したが、若年寄で従弟の稲葉正休(まさやす)に江戸城内で刺殺された。【出典
・ 1680年の四代将軍家綱の危篤をうけて、大老酒井忠清は「鎌倉幕府に実例をあげて、京の摂関家や宮家から将軍を迎える」ように進言した。それに対して、堀田正俊は、「館林に家綱公の弟の綱吉殿がおられる。血縁者がいるのに、よそから跡継ぎを迎えるのは許しがたいことである。」と反対意見を述べた。その功?により、正俊は1681年に大老となり下総国古河13万石を得た。正俊は1634年に堀田正盛の三男として生まれ、翌年に外曾祖母の春日局の養子となった。

■ 堀田正睦(ほったまさよし): 下総国佐倉藩主。オランダ好きで、特に西洋医学に深く興味をもち、江戸で名医として知られた佐藤泰然を佐倉に招いたりした。佐藤泰然が佐倉で開いた「順天堂」は、現在の順天堂大学の基となった。1810年に堀田正時の子として生まれ、16歳で佐倉藩主となった。阿部正弘に請われて老中を務めた。
・ 1810−1864年。佐倉藩主。幕政では寺社奉行や大坂城代などを経て、老中になったが、水野忠邦と対立したため辞任。しかし、正睦は開国を支持したことで、阿部正弘に推挙されて再度老中になった。【出典


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