加藤嘉明
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■ 加藤嘉明(かとうよしあきら): 「加藤」の名字の由来

・ 1622年に徳川家光が鎧着初(よろいきぞめ)という成人の儀式を行ったときに、介添え役を務めたのが賤ヶ岳七本槍の一人の伊予国松山藩主の加藤嘉明だった。加藤嘉明は藤原北家利仁流で、三河国にあったが、父の教明(のりあき)は一向一揆に荷担して尾張国に転じ秀吉に仕えた。淡路国の志知1万5千石を経て、朝鮮の役の活躍で伊予国松山10万石に転じた。関ヶ原の戦いでは東軍に属し、江戸時代には20万石に加増。その後、跡継ぎが幼少だったため陸奥国会津40万石に転封。しかし、不始末で石見国1万石に減知。その後近江国の水口2万石へ。【江戸の殿さま 全600家 八幡和郎 講談社】

・ 1563−1631年。豊臣秀吉が長浜城主だった頃から仕え、賤ケ岳の戦いで奮戦。七本槍の一人になった。文禄・慶長の役では水軍を率いて苦戦したが、朝鮮水軍を壊滅させるなどの功があった。豊臣秀吉の死後は黒田長政らとともに徳川家康に与し、関ヶ原の合戦では東軍に属した。石田三成の部隊を攻撃し、岐阜城、大垣城攻略に活躍。伊予国松山20万石を得て松山城を築いた。のちに陸奥国会津(福島県会津若松市)40万石に転じた。嘉明の死後は嫡男の明成が継いだが、内紛を招いて改易となった。しかし、嘉明の功によって家名は残された。【出典


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