「正木」の名字の由来 | |
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■ 正木(まさき)
【2023/05/19:改編】
# 代表家紋
# 安房国の正木氏は北郡正木(千葉県館山市)をルーツとし、桓武平氏の三浦氏の出。代々、里見氏に属した。里見氏の滅亡後、頼忠の娘の万は、徳川家康の側室となって頼宣を産んだ。子孫は紀州藩の家老を務めた。【出典】
# 安房国の国衆で、里見氏の重臣。桓武平氏の三浦氏の一族で、名字の由来の地は安房国北郡正木(千葉県館山市)。代々、里見氏に属し、戦国時代には時茂・時忠兄弟が活躍した。嫡流の小田木家の他、庶流の勝浦正木氏や内房正木氏があった。小田木正木氏が嫡流にあたり、時茂が小田喜城(千葉県夷隅郡大多喜町)に拠ったのが祖で、里見氏の重臣でもあった。子の憲時は天正6年(1578年)の里見氏の内訌に乗じて独立を図ったが、内訌に勝利した里見義頼に攻められて落城し自害した。義頼は二男の時茂に継がせ、小田木正木氏は里見氏の一門衆になった。江戸時代には旗本。勝浦正木氏は勝浦城(千葉県勝浦市)に拠って、代々将監を称した。永禄7年(1564年)の国府台合戦で里見氏が敗れると、里見氏を離れて北条氏の他国衆となり、永禄12年に再び里見氏のもとに戻った。北条氏と里見氏が和睦すると頼忠は引き続き勝浦を支配していたが、徳川家康の関東入国で勝浦を没収された。里見氏の滅亡後、頼忠の娘の万は徳川家康の側室になって頼宣と頼房を生み、万の兄の為春は三浦氏に改称して、子孫は紀州藩の家老。そのほかに内房に勢力を持っていた庶流があり、上総国の百首城(千葉県富津市)の淡路守家と、安房勝山城(千葉県鋸南町)の安芸守家の二家があった。【出典】
# 伊予国南宇和郡正木村(愛媛県南宇和郡一本松町)発祥の正木氏もある。【出典】
# 現在は高知県に多く見られる。【出典】
# 正木家(まさきけ): 家紋「二つ引両紋」【戦国大名「御家」系譜事典 宝島社 監修:森岡浩】
・ 桓武平氏の三浦氏流。伊勢宗瑞に滅ぼされた三浦義同の子の時綱が安房国の正木郷に逃れたことを祖とする。里見氏に従い、子の時忠が上総国の勝浦に本拠をおいた。里見家が断絶後に没落した。
# 「木」のつく名字。
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