愛知県内の「松平」の名字の詳細
参考資料・文献 利用上の注意
名字の由来のTop 地名の由来のTop
名字と地名のMenu 愛知県の名字の特徴
スポンサーリンク
スポンサーリンク

■ 松平(まつだいら): 愛知県の松平家 

# 愛知県の松平家: 三河国の戦国大名清和源氏新田氏の一族の得川義季の子孫が諸国を流浪後に三河国加茂郡松平郷(愛知県豊田市松平町)の松平太郎左衛門尉の婿となったのが松平家の祖の親氏であるというが、不詳。代々松平郷に割拠する土豪で、親氏のころから西三河に勢力を広げ始めた。室町時代中期頃、三代信光は岩津城(岡崎市)を本拠とする傍ら、政所執事の伊勢氏被官で、松平信光の弟の益親は長禄年間には京都で金融業を営んだ。一方、信光は1469年頃には安祥城(愛知県安城市)をも手中にし、多くの庶子家を周辺に輩出して一八(じゅうはち)松平と呼ばれた。信光の跡は、嫡男の親長が岩津城を継いだが、1506年に今川氏の侵攻で滅亡。代わって、安城城主の親忠が松平一族の惣領となった。1523年に宗家を継いだ清康は、足助鈴木氏を降すと、吉田城主の牧野氏、田原城主の戸田氏、作手城主の奥平氏、田峯城主の菅沼氏など、今川氏の被官であった諸氏を次々と従え、東三河の大半を制圧した。三河国をほぼ支配した清康は尾張国に進出したが、1535年織田信秀と対峙中に家臣によって殺され没落した。子の広忠は叔父の信定によって追放され、1537年に駿河の今川義元と三河の吉良持広の支援を得て岡崎城に復帰、子の竹千代(のちの徳川家康)を今川氏に人質として差し出した。1547年には広忠も家臣に殺され、今川氏によって領国は併合された。1559年に家康は岡崎に戻り、翌年の桶狭間の合戦で今川義元が討ち死にしたのをきっかけに独立。1562年に織田信長と結んで三河国を平定し、以後徳川氏改称した。【出典

# 愛知県の松平家: 旗本で西ノ郡松平家。竹谷(たけのや)松平家の末裔竹谷松平家は、松平信光の長男の守家が三河国宝飯郡竹谷(愛知県蒲郡市竹谷町)に転じて天文16年(1547年)に竹谷城を築城したのが祖。松平家清は、関ヶ原の戦い尾張国の清洲城番を努め、江戸時代には三河国吉田3万石したが、跡継ぎがおらず慶長17年(1612年)に断絶。その後、一族が三河国宝飯郡5千石で旗本に。

・ 交代寄合竹谷松平家の子孫。1590年に家清は徳川家康の関東入国に際し、武蔵国児玉郡八幡山(埼玉県本庄市児玉町八幡山)で1万石を与えられた。関ヶ原の合戦では尾張清洲城の城番を務め、戦後三河吉田3万石に加転。しかし、二代忠清は襲封1年半後の1612年に28歳で急死、跡継ぎがおらず断絶した。その後、忠清の弟の清昌が三河宝飯郡5000石で再興し、西ノ郡(蒲郡市)に陣屋を置いて交代寄合となった。後、分知して4500石。【出典

# 愛知県の松平家: 松平郷松平家。松平泰親の子の信広を祖とする。440石。

・ 交代寄合松平郷松平家。松平泰親の庶長子という信広を祖とする。信光が松平郷を出て松平氏を発展させたことから嫡流となったが、本来は父祖の地である松平郷を領した信広が嫡流であるともいえる。代々、太郎左衛門を称した。1590年の家康の関東入国で尚栄はいったん関東に移ったが、1613年に家康に願い出て、旧松平郷に210石を賜って戻った。後に440石に加増、小禄ながら交代寄合であった。【出典】 

都道府県毎の名字の特徴 名字の様々な区分
難読名字 難読地名・珍地名
地名と災害 名字の博物館
名字と地名・都道府県編 民俗学の広場内の検索

■ このサイトで使用している「名字の順位」「全国の概算数」「都道府県毎の順位」などについてはこちらを御覧下さい。詳細】 

統計表示