「戸田」の名字の由来
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「田」のつく名字  
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■ 戸田(とだ)

【2023/05/22:改編】

# 292位

# 288位【知っておきたい家紋と名字 別冊宝島】

# 代表家紋

# 藤原北家三条氏流清和源氏村上源氏桓武平氏などにみられる。

# 九州地方以外に広くみられ、特に中国地方四国地方に多くみられる。

# 主なルーツ地
・ 上総国武射郡戸田郷(千葉県山武町)をルーツとする。

# 上総の戸田氏は上総国武射郡戸田郷(千葉県山武町)をルーツとし、桓武平氏

# 大垣藩家老戸田家桓武平氏の出。

# 三河国国衆藤原北家の出で、公家の正親町三条家の末裔と伝えるが不詳尾張国冨田荘(名古屋市中川区)の出か。吉田(愛知県豊橋市)から渥美半島にかけての地域を領し、室町時代中期には政所執事の伊勢氏の家臣になっていた。事績が判明しているのは宗光以降で、宗光は三河国で起きた乱を松平信光とともに鎮圧し、明応年間頃には田原城を築き、さらに渥美半島を統一して三河湾の制海権を握ったとみられる。以後は、今川氏の影響下で勢力を広げ、今橋城の牧野氏を降して今橋城主になった。天文15年(1546年)に今川氏が三河国に侵攻し、今橋城は落城して宗光は岡崎に転じ、子の宣光は二連木(愛知県豊橋市仁連木町)に転じた。桶狭間の合戦で今川義元織田信長に討たれると、二連木城を継いでいた重貞は徳川家康に従って、永禄7年(1564年)には今川旗下の小笠原氏の拠る吉田城を攻めて討ち死にした。養子の康長は天正18年(1590年)の関東入国で武蔵国深谷1万石を賜わり、嫡流江戸時代には松本藩主。その他、分家も多く見られる。美濃国大垣藩主の戸田家は同族。【出典

# 秀吉の老臣の戸田勝隆は伊予国大洲7万石を領したが、朝鮮の役からの帰途に病死。その弟の戸田重政は、当初は丹羽長秀に仕えていたが、後に越前国安居1万石を領した。

# 栃木県の戸田家

# 長野県の戸田家

# 岐阜県の戸田家

# 静岡県の戸田家

# 戸田家

# 足利藩 ・ 宇都宮藩 ・ 大垣藩 ・ 大垣新田(畠村)藩 ・ 高徳藩 ・ 松本藩

# 国衆(国人)

# 「田」の漢字の持つ意味 

# 「田」のつく名字

# 「戸」のつく名字

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